呼吸と心臓
呼吸と心臓は、思考と意識との関係に似ている・・・
呼吸は思考・私という観念であり、心臓の機能とは生命であり意識であり空間であるとも言えようか?
思考・私とは呼吸として空間である意識に去来している現象なのではないか・・・出来事や行為と同じく。
それを支えているのは意識であり、意識とは空間なのではないか?
思考、思考している私・観察者は意識という空間に呼吸として来ては去っていく・・・呼吸とは思考なのではないか?
それ故に、思考を観照することによって呼吸は静まり、停止する・・と言われる
思考の観照(自己観察・想念観照)は、思考の沈黙であり、それは呼吸の観照でもある故であろうか。
この思考と意識の関係性を表すこととして
ラマナ・マハリシのスクリーンの譬えも良いのだが、私は「意識という空間に投射されているのが思考即ち私即ち行為だ」
と言われた方がより分かりやすい。
通常私達人類が意識として知っているのは、それは意識ではなく思考・心のことなのである。
この意識という普遍空間に、私は生じ去って行く、それは思考も同じであり、行為も同じであろう。
思考によっては全く知覚されない意識という空間に、思考は起こり、即ち私が生じている。
しかし意識である空間は影響を受けない・・その逆に空間という意識があるから行為・自己・思考は生じているのだ。
ここで相関関係にあるのが呼吸と心臓の働きの関係である
肉体三次元世界に於いては呼吸とは、思考や「私・私という観念の記憶」に関連づけられている
思考や行為や出来事は、それぞれ思考しているわたし、観察しているわたし、行為している私のことであり
それらは呼吸であり呼吸として、意識に去来していると思われる。
しかし意識とは心ではないので、現在の人類の現在意識には把握できない。
呼吸の本質は心であり、マインドであり、それが空間である意識に現れたのではないか
そしてこれらのことの観照者とは呼吸ではなくて、呼吸の観照者であり
それは即ち空間であり意識で在る事であるだろう。
しかし思考・自我や行為が現象することが出来るのも意識があるからであり、空間が在る故であるといえる
これを別の表現で言えば
夢見や日中の思考・マインドとは熟睡をささえている意識、即ち思考ではない意識がある故であり
現在の人類はこの意識を熟睡として無・意識としてしか認識することができない
それはこの人類の意識とは実際には意識が成り立たせている思考に過ぎないからであるといえようか
これを脳の立場から言えば、脳の受信装置の条件付けが解除されていないので思考しか受信できず
意識は受信できないと言うことであり
この場合の脳とは肉体の脳だけではなくて、肉体の脳を機能させている諸体の脳、個別的霊魂の状態をも指している
いずれにせよ
脳も、諸体の脳も、個別的霊魂も、それぞれが意識の表れであり、
呼吸・思考・マインド・私とは意識の一部であることには変わらないのではないか。
空間という意識であり生命が呼吸を生かし、あらしめているのではないか