行為している私


行為は起こっている・・・

行為が行為している者、即ち行為者、「私が行為している」と実感する私を絶えず生み出しているのではないか

その実感している私とは即ちこの久保栄治という私の事だが・・

では

この行為している私、即ち行為者、自分が行為していると実感している私とは誰だろうか?


自分が行為していると実感している私とは、分離していると、他者と別れていると、そう思っている個人である。

ではその個人とは誰か

それは分離していると実感しても、真実には分離しておらず、対象と分かれていると実感してもそれは真実ではない

その真実ではない実感をしているものこそが、地球人類で同一であるところの集合意識なのではないか

この個人の私々とは、この地球人類で同一の集合意識であるように思える。


即ち人類であるその個々人である私、私達とは、集合意識であり、地球では同じ意識なのだ、

この集合意識が分離していないのに分離していると実感している。

この地球人類の集合意識とは、悲しみであり、苦しみであり、孤独であることだろう。

常に求め、常に成ろう、至ろう、良くなろう、と必死に藻掻き、一生懸命に頑張る私である。

分離していないのに分離している・・・肉体と同一化した意識、行為によって生み出されている意識なのではないか?

行為によって生み出された意識が、自己となり、記憶となり、自分が行為していると実感しているのではないか



けれども

人類の意識、私、即ちこの個々人の私とは言葉や、思考、心を超えている未知なる私、分離のない私のことではない。

あるがままをあるがままに見ている私の事ではない。

ラマナ・マハリシや賢者達によって示されている真実の私とは、「対象や時間や分離を意識している私」ではない。

賢者のいう私とはこの集合意識の私の事ではない。



肉体を私だと思っている私とはその未知なる分離のない私ではない

自分が行為していると「行為によって生じ、肉体と同一化した私」とは、その分離のない私ではない

他者を自分と異なる他者として知覚し、認識する私とは、その未知なる分離のない私の事ではない。

この人生は自分の人生で、自分が自分の人生を生きていると実感している私とは、その分離のない私ではない。

この感情や、この記憶や、そしてこの個人の私とは、その分離していない私ではない。

この知覚や、この各体の脳が生み出している思考や想念や記憶や個人感覚は、その分離していない私ではない

成長し、学び、多くの輪廻を重ね、より良くなっていく私とは人類の集合意識の事であり、その分離していない私の事ではない



「私」「私の」「私のもの」「私が」と他者と分離し、みれらる対象を対象と見ているものは分離していると思っている私であり

その私とは、分離していない私、賢者達によって示されている「真の私」の事ではない。