見ることとは離れること



見ることは、たとえそれが未熟であっても

また、たとえそれが不完全であっても続けるべきであろう

わたしがその未熟者、初心者である。

この見ること、それは、大いなる修練を必要とするといわれている。


自己を見ることとは見ているもの即ち私から離れることであるからだ

自己を見ることは自己から離れることであると

自己を絶えず監視し、観察し、気づき、知覚し、判断している私から離れることだ

動機と目的を持ち、他者と分離しているとの実感をしている私から離れることだ

常に成就しようとし、至ろうとし、良くなろう、高次の知覚を得ようとしている私から離れることだ

正しい自己観察とは自己から離れ、自己を忘れ、自己から解放されるといわれているからだ

観察者、監視者としての自己から去ることである



私・自己・自分を見ることは、この自分を見ている私から離れることである

見られている自分とは見ている自分でもあるからだ

ただ見ることだけが観察者からの解放をもたらし、

そして、この見ていることのなかには私はないと



この自己中心の、自己関心の自己から去ることが出来るのは「自己を見ること」しかないことだろう

観察者としての自己、判断している自己から離れるのは内部で起こっている想念を凝視することだ


非難無く、批評なく、判断なく、言葉なく見ることは最大の変革の力であることだろう

見ることとは「私が」でもなく、「あなたが」でもない、それはただただ見ることだ

見ることの中には私やあなたはいないからだと思われる

そこには「見ること」だけがあると云われている。



その「見ること」の持つ力は絶大で、

見ることの純度に比例して、自分から離れることも可能になることだろう



ただし、見ることは至難だと言われているが

その壁に挑戦することが生きていることの証でもあることだろう。


感動して涙に溢れている私、苦しむ私、恐れ嫉妬する私、そしてそれらに反応している私を見守ること

感情や思考は起こり、行為は起き、仕事は起こり、その行為や出来事に反応する私も起こっている事だろう

失敗したり、成功したり、泣くことも、喜ぶことも、苦しむこと、そしてそれに対して非難したり判断する私も起こるだろう

プライドの高い、高慢な私に対してその私を何とか改善しようと、藻掻く利己的な私を凝視することだ



素早い「自我」の動き、「私という観念」の動き、集合無意識に、想念に、観察者に常時気づく必要が有る

即ち私自身に気づき、そして「自己」をただ見ること、自我・自己関心の素早い反応を非難無く見ていること

起こっている思考や感情や欲望に対して「反応している私」を静止して見守ること

その思考、思考している私、記憶、記憶の私、そしてそれを観察している私を凝視すること

感情や利己心の複雑で微妙な動きに気がついていること

他者を判断し、非難し、評価している私・自我を何の非難もなく静かに暖かく見ていること

人を評価している「私の動き」を目を凝らして言葉なくただ見ていること

自我や自己を非難し、自分を押さえ込もう、自分から逃げようとしている私を静かに静かに見ること


何の判断も、何の期待も、何の非難も無く、逃げることもなく、避けることもなく

この「観察者の私」「批評家の私」をただ見なさいと言われているが



内側の想念と感情とその動きに目をじっとこらしていくと

「この見ること」たとえそれが未熟であっても

そこから離れて行くことが起こり始めていることに気がつくと







この自己を見ることの力は絶大であると言われる

ただただ「見ること」のなかで油断なく目をこらしていること



自己からの解放はこの見ることの修練の中に在るに違いないと思われる。