戻る










自己欺瞞




自己欺瞞とは自分が自分を騙すこと、自分が自分を欺くことをいう。

そして私、私達である自己・自我は通常ではこの状態にいるのではないか。

幾たびと続く輪廻の中で私達はずっと変わらずこの状態にいるのではないか?

毎日の日常の私達の人生とは自己欺瞞の中にあるといえるのではないか。



では自らに嘘をついていること、自己欺瞞とはなんだろうか

私、自己、自我とは、愛ではなく、自己の中には愛は全くないのに「自分は愛深い、愛しているよ」などと

自己を欺き自己を騙すことである。

神を自分は信じていないのに、「私は神を信じている」と自らが自らを欺いていることである。

(神という概念を生み出して、その神を利用しているだけなのに神を信じていると思い込んでいる)

そもそも、この私達には愛があるのだろうか?

この私・自己・自我とは愛ではなく、私とは自己関心そのものであり、

他者を利用することしか出来ないのではないか?・・それは愛の逆のものなのではないか。


他を他として認識する主体が有る限りその状態は続くだろう。客体があるところ偽りの主体は生じている。

残念なことに、崇高な教えを利用し、神を利用しているのがこの自己・自我・私であるといえよう。

・・・この私とは愛のないものだ・・・これが現在のパーソナリティーの本当の現状である。





・・・・自己欺瞞、・・・・・しかしここで更に騙されていけないのは、

この自分をだまし騙されている私とは誰かと云うことである

誰が自己欺瞞をし、誰が自己欺瞞されているのか、その私とは誰なのか?・・・と云うこと


ここでいう私とは誕生の時、生命と共に「諸体が準備された肉体」に霊魂と共に入った現在のパーソナリティーのこと

そして、臨終の最後の息と共に諸体と共に肉体から去る霊魂に連れ添われた現在のパーソナリティーのことを指している



此処で混同してしまうのは行為している私、結婚したり離婚したりする私とはプログラムされている肉体の私であり

それらは個人人格と称され死後、中有界に残存するワサナ・想念形態→サムスカーラであり

この現在のパーソナリティーではない


人を好きになったり嫌いになったり、才能があったりなかったりしているのはこの予めプログラムされた肉体であり

行為する肉体の私、その肉体と同じ諸体であり、それを判断する自我という現在のパーソナリティーの私とは別の私だ


人を救ったり、殺したりしているのはこの行為する肉体の人格であり、才能があるのも、ないのもこの人格の私だ

現在のパーソナリティーである自我とはその私に反応している私のことだ


頭が良く才能があり、事業に成功して、地位に就き、幸福又は不幸なのはこの肉体のプログラムの私であり

それに対して「私の才能」だ、「私が為したのだ」だと自惚れているのが現在のパーソナリティーだ



現在のパーソナリティーには行為したり、泣いたり笑ったり、悲しんだり喜んだり、苦しんだり満足したりすることが出来るのか?

現在のパーソナリティーには思考という質料や記憶や知覚や認識や意識を生み出すことが出来るのか?

記憶や知覚や認識や意識は肉体と同じように生み出され維持されているのではないか

肉体と同じように、為されている行為も、この行為する人格も起こっていると云われている

人を好きになったり、嫌いになったり、結婚することも、離婚することもプログラムであり現在のパーソナリティーではない

それらは肉体や才能や行為として創造されているものであり、

現在のパーソナリティーが入った肉体に付帯している人格・個人として起こっている事なのではないか?





霊魂と共に、そこ肉体と諸体に入った現在のパーソナリティー

肉体や諸体と自己同一化し、起こっている行為を自分がしていると錯覚するこの自我の私

そしてそれが必然的に引き起こすこの自己欺瞞、自己関心、自尊心、高慢、傲岸不遜、不安、恐怖・・これは

この自我・私・現在のパーソナリティーが抱く諸々の錯覚と同様に必然的なことであるように思われる。