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起こっている思考、それが私だ



私に脳を生み出せるであろうか?脳が思考(私)を生み出したのだ。

また、その脳と結合している私という思考や記憶という自我もまた心の働き・作用のことではないか

その心の結果である私に、思考そのもの、心そのもの、自分そのもの、意識そのものを生み出せるのだろうか?

否、私が思考や心や意識を生み出し起こしているのではなくて、生み出され起こっている思考や意識や心が私だ。

私が思考しているのでもなく、私の前に思考が流れているのでもなく

思考が起こっており、思考の記憶が反応しているだけだ。

・・・それがここに起こっており・・その起こっている心が、そのものが私である。

その私という心がこの特定の脳に結合したのだ。

私とは生み出され起こっているもの、そのものでありそれが心なのではないか。心とは

心にとっては未知なる実在、心では認知不能・識別不能の根源(空ともいわれる)から生じていると云われている・・・。


心とは、私の心ではなく、起こっている心が私といっているもの(アハンカーラ・自性・マーヤ)なのであるといえる。



私が行為や知覚や思考や心を生み出しているのではない

この起こっている記憶や知覚や心や思考や行為そのものが私なのである。

それなのにこれらの記憶は肉体に結びついているので起こっている思考を見て私が思考している・・という

この「私」・記憶は更に強固となり、条件付けられているように反応するのである。


それゆえに、それらの心によって引き起こされた私が、私が思考していると実感し「私が考えている」という。

その起こっている思考も、その思考の記憶であり条件反応する私も共に起こっている心の姿なのではないか。

心、その起こっている心というものが主体と客体に分離・分裂しているゆえに

心とは自他に分裂している。(しかし心の根源・純粋意識とは主体と客体に分裂していないと教えられている)



「私」が記憶し、「私」が知覚し、「私」が行為し、「私」が認識しているのではなくて、

それらの記憶が、その知覚が、その行為が、その認識が脳に起こり、脳に結合しているものも脳と共に働いているので

私と言う実体感覚をさらに確個たらしめているのである。

自我の諸様相が如何に高次元のように見えていても、それは心の諸様相であり

観察者と観察されるものという分離そのものが心の性質に他ならない。



この私、人格や個人とは

ここに起こっている心、知覚、認識、そしてその記憶の反応、それ自身のことだ。それが人格個人だ。

更に起こっている記憶の反応である思考とその思考の中身そのものも自我としての私の中身だ。

この記憶の中身が、脳に起こっていることに条件付けられているように反応している。


個人・人格とは起こっている思考と、起こっている感情と、起こっている心の中身そのものであると言える。

そしてそれらは更にそれらの記憶としての自我として形成され、

脳に起こっている思考や行為や感情に対して条件付けられているよう反応している。

この記憶体の私とは幾輪廻を重ねている諸体の脳の記憶そのものであるとも言える。


この起こっている思考に反応してこの継続している記憶が「考えているのは私だ」「私が思考している」と言っている。



ただし此処で注意したいのは

自我とはこの起こっている思考や感情に反応する記憶それ自体であり、

私という霊的実体があって、その私が行為し、その私が記憶し、思考し、知覚し、認識し、反応し

感じているのではないと言うことだ。


知覚作用や認識作用・記憶作用とは心であり心が脳に起こっている事柄なのだ。

決して私が知覚し、私が認識しているのではないし、私が記憶しているのはないということだ。

知覚も認識も記憶も、そしてさらには自我さえも完璧なるマーヤのシステムとして起こっている事柄だ。

この私達・・・この今世の人格と個性・・・それに対する継続している自我の反応・・これはともに生じているプロセスだ。


従って、繰り返してしまうが

この私とは、知覚の反応、記憶の反応と、それ自体である中身の思考や感情、即ち心そのもの、

それ自体であるということだ。


ラマナ・マハリシや他の賢人達の言うような「鏡」という「意識の場」や「スクリーン」という

心や思考を上映しているその意識の座・・・・それが意識化されておらず

心や思考ではない「沈黙と云われている意識」という実在が

この特定の人格や個人に意識化されていない段階である(その沈黙を脳が受信できず繋がっていない)以上は



私達人類にとっては

この自分が行為していると実感している私という観念が、この起こっている行為、出来事に反応している。

沸き起こってくる思考や感情・・・それに反応する更なる思考(記憶)

・・それらそのものが記憶によって私と実感され、私という錯覚の中に輪廻する。

(賢者は意識の「座」にそれらは沸き起こってくると云われるが、その意識の座という・鏡・またはスクリーン・・

という意識の座が意識化されていない現状では・そのやってきては去るそれらの知覚、認識、思考や行為、そして条件反応)

・・・・それ自身がこの私、自我としての私自体である。



私とはその起こっている行為、心、思考、感情に対する記憶の反応である。

それらはそのまま「私という人格や個人」のことでもあり、それに対して条件反応する「自我」なのである。

この記憶の反応である私・久保栄治にとっては此処に起こっている思考や感情や行為が即、私自身であると実感してしまう。

従って、その欲望や感情や恐怖や観念や考えに対して条件反応している自我である私にとっては

「自分が考えていると思って実感している」以上、責任が生じるのである。


ここ脳に起こっている記憶とその反応、そしてやってきている行為とそれらの思考の両者ともが久保栄治である

何故ならやってきている自他の思考と目の前の出来事とは記憶である自我の姿を顕している鏡だからだ。

私久保栄治とは此処に起こっている思考と感情の中身そのものであると同時にそれに対する条件反応でもある。

私久保栄治とは起こっている多くの側面を持つ心・マインドの結果であり、それ以外に私・久保栄治がいるわけではない。





此処で再確認しておきたいのは

私という記憶の反応が行為や思考や、記憶や、出来事や、心を生み出しているのではなくて

起こっている行為、起こっている思考、起こっている心、起こっている知覚や認識という

それらそのものが即、自我の前に起こっていると云うことだ。

このわたしとは「私だという心」の記憶であるので、その行為や心や思考や感情に対する反応の責任は

記憶である自我が負うのは当然なのであるといえる。


起こっている行為や思考に対しての記憶の反応があり

その起こったことの記憶が、記憶の条件反応も含めて思考や行為を自分自身と思うのであるから

その結果としての私は、その行為と思考そのものでもあるので

その起こっている行為と思考のカルマを負うのである。

そしてカルマは途切れることなく循環していく。




その行為=カルマも

行為を自分が為していると思い込むことによってカルマを負う者も、行為や思考や感情や記憶と同じく

階層や次元は異なれども共に起こっている現象に他ならない。それが心だ

或る特定の肉体に宿った者も、宿っていない者も記憶システムが反応している思考なのだ

それをさらに自分だと思うものも心なのだ


従って

私が思考している、この思考は私が思考していると実感する私

私は行為している、この行為は私が選択し、私がするべき行為を決定しているという私

私がこの人生を生きている、この人生は私の人生だという私

私が観察している、この観察は私がしているという私

起こっている思考を観察している、と思考する思考である観察者

そしてその観察者を分離し対象として観察しているより深い心の観察者

それらの私とは、幾次元に分かれていても思考や行為や心によって生み出されている「神のマーヤ」・虚構に過ぎない。

霊眼は肉眼よりは幾分は優れていても同じくマーヤである心の作用であるから自他に分離している。




観察者

思考者

それらの体験者・経験者は如何に上位次元の目であるかのように思えていても

思考の働きが、心の働きが起こっているだけだと言われている。



もしも沈黙が起こり、心は生まれず

如何なる次元であっても自他に分離した知覚が起こらず、認識も起こらず、記憶も起こらず

言語化、形象化も起こらず

思考が休止しているという思考の状態も起こらず

これらである心の働きも、心自体も起こらず、従って私も起こらず

行為も起こらず、感情や観念や、感情が起こっていないとき

そこには沈黙があるといわれる

その沈黙の中に本来のものが、

始めから実在していたもの(あるがままのもの)が姿を顕していると云われている。