友人Z氏との対話
「私」:お久しぶり、十年ぶりだね、相変わらずクリシュナムルティーを学んでいるの?
「友人Z氏」:勿論だよ、僕のライフワークだからね
「私」:ところでクリシュナムルティーって結局は誰だったと思う?
「友人Z氏」:歴史的に見て過去にもそういうことが八百年に一回くらいづつ仏陀やイエスとして
あったとはおもうけれども、全体なるもの、普遍なる意識、絶対なる超意識・愛が
あの肉体と人格を通じて、私達というマインド次元に顕現し、話しかけた現象だと
思うよ
「私」:そうか・・・、だから「私達である心・意識や思考」ではその彼の話す全体性という意味を
理解出来ないわけだよね
「友人Z氏」:クリシュナムルティーのことはこの僕にも分からないし、話す資格もないので著作が
沢山出ているからそっちを読んでもらいたいね
「私」:分かったよ、ところでこの私、人類で皆同じこの私自身について、何か気が付いたことがある?
「友人Z氏」:僕が思うに通常の人生での私という意識とは、実は意識と呼べるものではなくて記憶の反応
即ち思考やマインドの記憶の反応だと思うんだ。というのも「永遠の原子と繋がる現在のパー
ソナリティー」は眠ったままだからね、この全体性と繋がる「窓」は私という思考の記憶、私
という観念に依ってまったく包まれ覆われてしまっているんだ。
「私」:ふ~ん、自分的にはここにしっかりと私がいて、今までの人生を生きていた私が私であり、この私
が私としてここにいるように感じるけれどね~
「友人Z氏」:そのしっかり感じている私というのが実際には私を詐称する思考の記憶の反応なんだよ
通常の人生で私と実感しているその私とは「本当の私を覆っている」思考の記憶なんだよ
ここにいるこの私とは私ではない私のことなんだよ
「私」:そうか、だから怒りや不安や暴力はその「私という思考」の反応なんだな、私が怒っているのではなくて
怒りが私であり、私が考えているのではなくて考えているその思考という記憶の反応が私なのであり、
その怒りという思考の反応が、ここにこうして「私が怒っている」という実感として起こっているという訳か
「友人Z氏」:それをその怒りである思考は、「私が怒っている」と感じて、この怒りをどうかしようとして良い人に
なるように祈ったり、怒りを静めるワークに参加したりするわけだね
分離している思考の反応である怒りは、怒りという自分を全体から見ることが出来ないので怒りは
自らである怒りを焦点化し、怒りを対象化し、怒りを改善しようとして色々とワークし始める訳なんだ
怒りを怒りとして知覚しているのはその怒りなんだよ
「私」:では、そのことを知ってどう対処したら良いの?どうしたら良いのかなあ?
「友人Z氏」:此岸にいる私達という思考である私には何も出来ないのではないのかな
「私」:何もすることがないのならどうなるの?
「友人Z氏」:それこそが思考が思うことだよ、この思考というのは個人ではなくて人類で同じ同一のマインドと
いう意味だけれど、この思考という私は色々やれば自分自身を超越できると思って修行したり
いろいろとワークをし始めるわけだよね、お金を払って悟ろうとしたり、聖地で修行して自己を超越
しようとしたりするわけ・・
「私」:しかしそれは決してどこへも導かないでマインドの枠の中で動き回っていると言うことなのかあ・・・
「友人Z氏」:実は僕もここから先はいえないのだが、この自分自身が行うこと、動くこと、思うこと、考えることの
全てが実は分離分割しているマインドの動きだと言うことを「永遠の原子である現在のパーソナリテ
ィー」が知りはじめたとき、私達である現在の私(現在のパーソナリティー) は思考と同一化することを
辞めて沈黙すると言われているんだ、平たく言うと思考の停止があちら側から起こるということ
「私」:それで・・
「友人Z氏」:そこで、この現在のパーソナリティーが自分であるマインドを熟視すると言うことが興ったとき、沈黙
が始まると言われている・・
そして
ここから先は僕も全く推測なんだが・・・恩寵が内側からやってくると言われているんだ
「私」:それで・・・
「友人Z氏」:その恩寵により、この私達・私は脱皮するように自己の死または洗礼と言われている「思考である
私」から次の段階へと進むらしい
私達現在のパーソナリティーが自分を脱皮して潜在意識的意識状態から意識的意識状態へと移行
すること、即ち私達の三つの高次センターと繋がりはじめ頭脳を超えた意識が知覚し始めるということ
・・しかしこれは此岸から彼岸へ移動することであり、ここの私達である此岸の僕にはどうすることも
できないことだよね
それは「恩寵による神聖なる自己」の死を通じてあちら側である彼岸からやってくることなので、現在
のパーソナリティーやこの思考の記憶である私にはどうすることも出来ない・・と言うことなのだろうね
「私」:そうか、まずはこの私である思考の記憶が、自分自身が如何に全てを分割し、分離しており、自分自身をも
分離して対象化してしまっているというこの実態を理解しようと努力する事からだね
「友人Z氏」:完全な否定こそが肯定への道であり、この否定が興ることは実は恩寵の始まりで、ミルダッドの言う神の子
である私を覆っている「私」が脱落していく沈黙の始まりなのかも知れないね
思考の記憶である私がいくら修行しても、知識を深めても、あらゆる情報を知っていても、それは思考マインド
の中にあって思考やマインドを超えている全体なるもの、普遍なる意識・愛には決して触れないし理解する
ことは出来ないと言うことだね
「私」:ありがとう、また是非会って色々話しましょう
「友人Z氏」:こちらこそ有り難う、僕もまだこの話したことはあくまで理論であり、実際の理解ではないので、もっと
実際の(私がいない)体験として話せられるよう学んでいこうと思っているよ