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肉体に入ったもの、肉体から去るもの



最初の息と同時に肉体に入り、最後の息と共に肉体から去って行くものとはなにか?

息を引き取ったのは誰か?

肉体に入ったものとは、その生涯を終えて又肉体から去るところの「息」と共にあった。


それらの息と共に去るものとは、この物質界で肉体と一緒に複合・複層して存在して

いたものでもある。

(私達はこの身体は肉体だけで機能していると思っているが決してそうではない複合体なのだ)


「息」は覚醒時も、夢見時も、熟睡時もそして肉体から去った後も一緒に続いてくださっている。



(この息とは肉体から見たときには肺が呼吸をしているように見えるが、肺呼吸をあらしめ

ているのが生命であり息なのだ)

(受胎ではなく、母親の母胎から切り離された出産時に)最初の息と同時に肉体・諸体・脳に

結ばれたものは、最後の息を引き取るときに肉体から切り離される。

この生命そのもので有り、「息」であるものが死後の生というこのマーヤを幾世に渡って同じ

ように支え続けておられるのではないか。



では最後の息と同時に肉体から一緒に去るものとは何だろうか?


この息であり生命で有る霊(全体の一部としての個別的霊魂)が肉体に入る前に、その肉体には

受胎と同時に預託され母胎に入って、準備されていたものがあるのだ。

(この肉体にどのような個別的霊魂が結合するのか、そのためにその準備がされていたのだ)

覚醒状態に於いて機能している脳の記憶である顕在意識、カルマとDNAプログラムによって

行為している肉体に

「息であり生命であるものの一部」霊魂が入る前に母親の胎内に胎児として準備されていたもの

があり、その全体性の部分としての特色がある霊魂が入る為に受精卵に対してこの預託が起こるのである。

(大自然とは一つとして同じものが存在していない無限のオンリーワンによって分離せずに構成されている。

これは人体を構成している細胞が一つとして同じではないけれど、それなくしては全体が成り立たないのと

同じである。個別的霊魂のオリジナル性が全体である霊の特色なのだ)


受精卵に書き込まれているカルマ・プログラム、そしてコーザル体から投射された前世から

引き継いでいる自我・サイコノエティック体が、個別的霊魂が呼吸と共に入ってくるのを肉体は

待っている。

これらのことは息という霊魂が肉体に入る前に、その肉体には既にこれらの準備が為されてい

るということである。



この準備の後に最後に肉体と結ばれる霊魂からの「息」とは自我・サイコノエティック体にとっては

未知なるものであるが、この肉体での学びを終えて最後には再び息である個別的霊魂・霊は自我と共に

肉体の死に際して離れて行く。

最後の吐く息と同時に・・・。

この”「息」と共に離れて行くもの”とは、個別の運命をたどるべくカルマに従って設計された頭脳と肉体に

宿っていたものである。がしかし、息という生命がなければ、これらの自我、諸体、心はあり得ない。

心、思考、自我を生み出し、維持しているのはこの息であり、それは私を含まない思考や心を超えたもの

である。





〈ここでおそらくこの分かり難い言葉の意味を私なりの理解ではあるけども一応整理してみたい〉

肉体に全体的霊の一部であるところの個別的霊魂が入る前に母胎に準備されていたのは

①DNAプログラムとしての運命づけられている肉体・肉体脳+エーテル複体

   (主に覚醒時では記憶からの反応の意識、プラス才能やマイナス才能、脳の状態・人格個人の自己意識
    幼児から教育され、宗教や信仰や伝統によって条件付けられていく脳の反応
    脳・記憶という意識の場である、脳という受信器によって受けとられている思考と感情、心の働き)

②カルマ
   (主に避けられない衝動として発動する感情、情熱、運命。恋愛や結婚・離婚、事件や事故もこれによることが多い)

③サムスカーラ
    
    幾前世からの数多くの無数の記憶、これが過去世に生きた個人・人格
     (①の記憶が死後、本体と切り離され、想念形態・サムスカーラとなって次の肉体に結びついている)
     (主に覚醒時の意識に突然の前世の個人の反応が表面化し才能を現したり、特定の好き嫌いをしたりする)

④サイコ・ノエティック体(自己・自我、現在のパーソナリティー)
     サイコ・ノエティック体・及びその複体のこと
    (主に夢見時の自己意識。肉体を体脱・離脱する幽体の意識の事。更にこの幽体や霊体という諸体から体脱
     することが「思考・心なくあるがままを見る」ということ)
    (覚醒時には自己の思考や感情として意識される。起こっている内面や外面への判断・非難や批判・逃避、
     同一化を繰り返しており、性同一化障害などを引き起こしているところのアストラル体、メンタル体などの
     働きと、その意識反応、肉体ではないその諸体の記憶及びその記憶反応、これらの身体は肉体を離れる
     まで肉体の脳と完全に一体化している。)

これらを総称してマインドとか心と呼称されている。
この領域は心・思考であり、全てが「私」という観念の中にあって自分が考えている、自分が生きている、自分が存在
している、自分が行為している、という実感(虚偽)が支配している。
全てが私という観念=虚偽=神のマーヤの中にあり、神の演技と云われている次元である。
個である私はいないのに、私は存在しているとの確信をする私という観念が横たわり、自分が為し、息し、自分が思考
し、自分が輪廻しているという実感に満ちあふれている。
この次元・領界そして輪廻を構成しているのは心であるといえよう。
それゆえKが「心なくして見よ」と言われているその「心なき直視」の中には輪廻がないのである。この領域がないのである。


話は戻って、この準備が整った胎児に最初の息として入るのが

⑤これらの転生を記憶している原因体若しくはコーザル体
    (通常の条件付けられている脳の状態ではこの意識とは殆ど同調することができず、この意識は意識化されていない)
    (熟睡時の意識と云われているが、脳は条件付けられており、またこの脳と一体化している④の意識が透明
    化していないのでこの意識を意識できず、肉体脳と一体化している現在のパーソナリティーは熟睡に陥る)

⑥全体性である霊の一部である個別的霊魂・観照者・永遠のパーソナリティー
     (覚者達の意識状態であり、行為は起こっていると明言できる意識状態、これは脳にとっては未知なる意識であり
      思考ではなく、思考を生じている私という観念・マーヤが開示されたあとに起こる(繋がる)といわれる未知なる意識)

⑦生命である「息」、霊または全体性の未知なる叡智・愛

      この次元を超えている次元の事は、現在のパーソナリティーでは認識不可能、説明不可能
      解説不能というのは知覚や認識という思考が作動し、心が働いているからである
      (さらにこの先も存在しているらしいが私達にとっては余りかけ離れているのでここでは省略したい)


⑤~⑥は気づきまたは未知なるものであり、「思考なき見」の意識状態、この状態にあるラマナ・マハリシ達覚者の意識とは
条件付けを解除されている肉体の脳が、純化され透明化された③+④を通じて⑦の意識が発現して、⑦として言葉が発せ
られているので、彼らが努力して悟りに至ったのではない。
私達は覚者達を「個人が悟りに至った」と誤解してしまうのであるが、個人や私が悟りに至ったのではなくて、個人や私とい
う錯覚がこの③+④から完全に取り払われ、肉体脳の条件付けが解消されたとき最初からあったこの生命そのものの意識
がこの個体に顕現したのである。





肉体の死と同時に吐く息と一緒に肉体・エーテル複体から離れて行く「私」とは何だろうか

一、条件付けられている特定の脳から生じた人格や個人という肉体脳の記憶(魂殻)

  (この個人人格は死後想念形態として或る一定期間、中有界にて存続し、サムスカーラとして留まり
   個別的霊魂が肉体と諸体を得たときにその特定のサイコ・ノエティック体&肉体の太陽神経叢に吸い寄
   せられていく)

二、カルマやプログラムと共に、これによって生じた条件付けられているサイコ・ノエティック体という精妙体
   (一般には幽体・霊体またはアストラル体・メンタル体などと云われている)

   この精妙身体=私とは、現在のパーソナリティーと言われている私のことであり、夢の中の私の事であると思われる。

   夢の中で、この夢の私が、これは夢だと意識することが起こるとき、このサイコ・ノエティック体は正しく成長しているこ

   とを示している。

   覚醒時の脳・現在意識に於いて起こっている感情や思考や行為や運命・出来事に対して、自分が行為していると

   錯覚し、生存中、肉体・脳と結合していた時には、私=汎マインドの一部でありながら、自分は肉体だと思っている。

   しかしこれは実際には心そのものであり、その心とは自分は他人とは異なり全体と分離していると思っている。
 
   私とは脳・肉体と繋がることで肉体を私だと勘違いしている心という質料から構成され、心そのものである。

   私とはこの心であり、決して個人ではないのに個人だと思っている「私という観念」マインドなのだ。心が私だ。

   そしてこの私が消え去らない限りは、「見る」事も無く、真実の理解は起こらない。心を心なく見ることが

   起こるときこの「輪廻」は証される。それ故、仏陀は私達凡夫には輪廻は説かなかったのである、私達には

   誤解しか無いからだ。

   従って自分を個人の私であると思っている心。実際は心という大海であるマインドの潜在意識の私のこと。

   この「夢見時の私」が物質界を去った後、次のあの世と云われている次元に(無意識界・冥界)行き、死後も

   肉体を持った個人が継続しているように思ってしまうのがマインドそのものであるもの。

   (しかしこの個人サイコ・ノエティック体はこの冥界から再び誕生が起こるときには、この「呼吸であり、生命
   であり未知である非個人的な私」のコーザル体に吸収され、かつまたコーザル体は個別的霊魂と言われる
   普遍的な霊の一部で有るものに収納され、次の転生に備えることになると云われている。
   そして生命・息が入る準備のため再び母胎にてカルマやそのプログラムに従って再形成されるのであると)

三、このカルマとプログラムによって行為と出来事と運命が決定されている肉体と諸体に息で有るものの一部として
  
  呼吸と同時に入った普遍的意識の一部。より根源に近い私、全体と切り離されていない霊としての私。

  これは個別的霊魂と言われ、息であり生命であるものの一部、この個別的霊魂の内奥底こそ無限といわれる

  全体性である意識である。

  この個別的自己(現在のパーソナリティー)を主体無く観照しているものこそ気づきと云われる全体性からの

  ものである。

  意識で有り、この意識こそ永遠のパーソナリティー又は個別的霊魂と言われる観照者である、といわれている。




そしてこれらの既知で有る現在のパーソナリティーの私、未知である個別的霊魂・永遠のパーソナリティーを息として

支えているのが生命であり、霊そのものであるものなのではないのではないか。


内部にあって息として呼吸をあらしめ、個別的霊魂をあらしめ、夢見時の私、あの世で再び夢の世界を生きる私

個我・現在のパーソナリティーを生かしあらしめ、大脳周辺系の覚醒時の記憶意識と肉体というプログラムされた

個人・人格をあらしめ、個別的霊魂の奥底にあって、「思考なき気づき」であるもの。



前述の分離しているマインドの私達にとっては未知なる熟睡として、「息」として諸々の私を見守っているものである。

それがこの無限であり、全体であり、いきとし生ける生命なのではないか


以上はあくまで私の仮説であり、真実ではないかもしれないけれども、これがここまでの人生で学んできた結論でもある。