全受容
ラメッシは全受容が観照であると云っている。
あるがままを受容すること即ち全受容とは行為から離れることでもある。と
それは、あるがままの私を完全に受け入れること、私を抱きしめること。
最高傑作である自己・自我を受け入れること、この自我を受け入れている私を全受容することである。
即ち観照であると云っている。
起きたこと、起こっていること、起こるであろう事・・・即ち良いことも良くないことも完全に受け入れること。
あるがままをあるがままに全受容すること
受け入れたり、受け入れなかったり、考えたり、判断したり、非難し、逃避し、批評している私を全受容することでもある。
全受容とは起こっている事柄をそのまま受容することに他ならない。
これは起こっている事柄なのである・・・
これは、あるがままをあるがままに全受容することに他ならない。
・・ということは自己から離れることでもあるといえよう。
何故なら受容することも、受容しないことも本当は出来ないからである・・
する又はしない、ということ・・それは起こっているのだから・・
起こったこと、起きている事、起こるであろう事は、受容する又はしないに関わらず起こる。
・・・このことは時間の領域だからであると。
過去という結果であるからだと。
これが現象界という次元に他ならないからであるとも思える。
この思考、想念、感情、記憶とその反応、行為
この私・自我、このカルマを
完全に受容することが観照であるとラメッシは言っている。
全受容とは自分自身から離れることであり、即ち観照が起きているのではないか
再誕生を望む者は起こり、そして肉体の誕生が起こり、死が起こる。
この私、この自我、この思考も、この行為も、そして選択も起こっている事柄であると
私が行為するという・・この私が起こしているという錯覚とは脳に起こっている現象であると言われる。
行為は脳が起こしているのであり、自己・自我・私が起こしているのではない。
自己自我とは行為の記憶なのだ。
脳と脳の機能である記憶が「行為している私」「私が行為している」という錯誤を生み出している。
実際には脳は私が作ったのではなく、脳が私を生み出したのである。
この心も私の心ではなくて、心という質料(広範囲での物質)なのであり、その質料(物質)が脳に生起しているのだ。
感動や感激、心の持つ絶妙で微妙な心の織りなす最高傑作・・それらは脳に起こっている
この質料が私という自己意識であり、この私という自己意識は質料そのものであり、
そして質料(心・思考・自己意識)はここ脳に起こっている事柄なのである。
私が思考しているのではなくて、”私という「物質・想念」”が「私が思考している」という錯覚を生み出している。
脳故にそれらの思考が起きているのであり、
私が思考しているのではなくて、脳に思考が起きているのである。
そしてその思考・物質が私という自己意識を持っているのである。
思考も、欲望も、行為も、そしてカルマも輪廻も起こっている事柄なのではないだろうか?
私とは物質・質料・意識であり、起こっている現象なのである。
心も、脳も、肉体を始めとする諸体も、私のものではなく起こっている事柄に他ならない。
私も、私のものもなく、
私の人生も、私の失敗も、私の成功や、私の成果もない・・・私そのものが生起しているからだ
行為そのものが生起している・・「私が行為している」という虚偽・錯覚と共に
それ故に
これは受容するとか受容しないとか言う問題ではないともいえようか
行為・出来事とは既に過去として時間次元の領域内にあり結果なのだと言われている
だからこそ
自己が自己を完全に受容すること、
自己が自己を許し、自己を抱きしめ、受け入れ、自己が話すことに耳を真剣に傾けること
自我が自我を全受容することが肝要なのではないか・・と思う
このとき自己から離れることが起きる。
このとき観照が起きている・・・とラメッシは言うのだ。