選択の中に自由はない
選択するとは自由ではない
この言葉は有名なKの言葉であるが、今日はこの事について少し考えてみた。(愚か者の雑感である)
「選択することがある限りは自由ではない」と言われる。選択している実感があるところは自由ではないと。
通常は選択することが自由の証明であるのだと思われているけれど、Kはこの選択することこそが自由ではなく
その反対の束縛の状態であることを明言している。
自由ではないから選択があり、選択すること、「私は選択している」、
「私が行為している」という実感・・・即ち虚偽が生じていると。
私という観念の中に行為があり、無為は観念の中には無い。
選択するには、その前提として私という主体が必要である、行為するには私が必要となる。
選択するとは何よりもその事を選択する主体、即ち私という観念、私という実感を大前提にしているからなのである。
また選択するとは、時間の経過を意味しており、過去現在未来という至ること、なること、する事という時間であり、
時間から成立している観念、私という観念そのものの実感であるといえるからなのか?
また選択することとは、
「如何に生きるべきか」「如何にあるべきか」「私は誰か」ということを考える事でもあり
この如何に生きるか?如何にあるべきか?を考える・・・・この私、考えるということの前提である主体、
即ち
この分離的自己、即ち私という観念を大前提にしているから、
この選択とは自由ではないと言われているのだろう。
私という観念がある限りは選択することという実感(虚偽)が生じるのだろう。
事実はあるがままは起こっているのに
私が選択しているという実感(虚偽)が生じているのであるということか。
あるがままが起きているのに私が選択しているという私という観念の実感が生じ、あるがままを覆っている。
私という観念である限りは
自分が生きている、私が行為している、
私は何を為すべきか?私は如何にあるべきか?
私の過去現在未来はこうであった、またはこうなるであろう等々
諸々の私という観念から生じる、若しくは私という観念であることを証明する実感(虚偽)が生じてくる。
また「選択の中に自由はない」という言葉は、逆にとらえれば、
「自由の中には選択することはない」・・となる。
(あるがままがるがあるがままにあるからだ)
またそれは「起こっていることからの自由」でもある。
行為から解放されることでもある。
それは「わたしは行為していない」でもある。
それは知覚対象と知覚主体即ち内部と外部からの解放でもあり、
あるがままを知ることに至ることでもある。
それは既知からの解放でもあるといえようか。
それは「あるがままがあるがままある」の次元であり、
私達である私という観念には、そのあるがままを実感することはない。
次元が異なるからだ。
私達、私という観念が知覚しているのは「あるがまま」ではなくて、
あるがままではない私という観念が歪曲し知覚する主体と客体
あるがままではないものを私達、私という観念はあるがままだと歪曲して知覚しているからだ。
世界中の人類が同じ構造の脳の知覚であるから
このあるがままではない知覚でもって、
この知覚されている内部と外部をあたかもあるがままだと錯誤しているのだ。
私達は選択の中に生きているのであり、私達こそ選択そのものであるので、
従って私達とは自由ではない。
私という観念には自由というものを実感することがないといえるのではないか?
この私という虚偽の実感が残存している限りは自由はない。
このKの「選択の中に自由はない」とは、
自由ではないものが私達であることを示しているとも言える。
というのも
私達こそが私という分離・孤立している自己と言う感覚であり、
私という観念である以上は必ず「選択すること」「行為している」の状態にあり
それは即ち自由ではないことの状態であるということになるからだ。
「選択の中には自由はない」
それにもかかわらず、私達はこの選択することを自由の状態と思ってしまうのは
この非自由状態を自由だと実感しているものが全く以て自由ではないものであることを証明している。
私達は観念であり、私という観念それ自体であるがゆえに、
分離している私・分離した主体という実体感覚を持っているのだ。
そしてこの私という観念が
「私は選択している」、「私は行為している」、「私は如何に生きるべきか」、「私は誰か」
と思考している。
思考が有る限りは自由ではないとも言える。
思考からの自由を求める観念である限りは自由ではないと言える。
自由ではないものであるゆえに自由になろうとする。
思考からの自由を求めている者こそ思考の本質であると言える。
この私とは記憶作用でもあり、記憶の働きであり、記憶が働いているところに生じているものとも言えようか。