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全託




全託とは何か?

全託とは、為すことやする事ではなくて起こる事なのではないか?

もし全託がそこにあるなら、私が全託しているのではなくて、全託が起こっており、

そこには「私」が全託しているという錯覚は起こっていないことだろう。

この「私」こそが「私が為している」と錯覚するところの全託することのない「マインド・自己」であるからだ。

それ故に、「私が全託している」という、この実感がある限りはそれはまったく全託ではなく

何かを得るために全託していると錯覚している「マインド=自己・自我」が働いているということなのではないか。

全託することとは「為すこと」や「する事」というマインドの働きではなく、

マインドを超えている気づきのものであるようにおもえるからだ。

何かを得るために全託するというのは商売と同じで、自己を失うことではない。

自己が失われていない限りそこには全託はない。



同じように

「私」が愛している・・という実感も、この実感を感じているものは愛ではないもの、即ち自他に分裂しているマインドであるにすぎない。

もし愛がそこにあるなら「私が愛している」という実感があるはずがないからだ。

愛の中にどうして私という「自他という分離認識」があるのだろうか

もし愛がそこに起こっているなら、自と他という分離・区別の錯覚が打ち破られているはずだからだ。




感謝にしても同じだ、

感謝には私という実感は全く含まれていないので、通常のいわゆる感謝とは全くもって感謝とはいえない。

通常のありがとうございます、とは利益誘導への謝礼という、自己本位のマインドから生じている「まいどおおきに」という商売であり

それは感謝ではない。ほんとうの「ありがとうございます」とは、もっと深く、もっと神聖で普遍的なものである。

真の感謝があるとき、そこには自己への利益誘導・損得勘定で動いている「自己・私」というマインドはない。




空っぽの器に関しても同じだ

空っぽの器になるとき、そこへ入ってくるものを恐れている私そのものがそこにはいない。

入ってくるものとはその空っぽの器自体なのではないだろうか。


器・・それこそが常に自他を観察し非難してる監察官、監視者であるところの自我であり、

自己であるものしか知覚し認識出来ないのに、やってくるものであるそれらを自分とは別のものだと知覚し認識している

器自体が中心点であり、中心点のない気づきではない

器にそのやってくるものとは、私とは別のものではなく、観察している私ではないものではないにもかかわらず

対象を主体とは異なるのだと錯覚しているマインドだ

これが空の器の実体だ。

空の器とは個別の私であり、その私こそが「私という観念」そのものであり、自他を分裂させているものであるのに

空っぽになることを恐れているのだ。自己が何かに占有されはしまいかと・・・

この器こそが空ではない自己と言う観念であるのにである。

というのも恐れること自体が空っぽではないことを証明している。

究極的にはその器とは自己ではなくて、自己と言う幻想を使って

現象界を現している根源のものだと言うことを自覚していないものであるからだ

・・と思われる。