戻る
















肉体は叡智の結晶



肉体の機能は素晴らしい!  肉体は超絶した大叡智の結晶である!

にもかかわらず、私達は肉体を「私の身体」、私のからだだと信じている。

本当は、肉体もそしてその肉体の行為も起こっている事柄なのにである

自分が行為していると実感している、この私すらも起こっている事柄なのではないか?


肉体の誕生も、病気も、老いも、死亡もよく考えれば分かるように、それは起こっている事柄なのではないか

夜、眠ることも、夢見ることも、朝起きることもそれはよく観察すれば分かるが起こっている事柄なのではないか?

食事をするときも、実際には驚くべき協同作業がこの肉体では起こっているのだ。

従って肉体も、その肉体の行為の主体も勿論この自我ではないことは全く確かなことなのだといえる。




そしてさらに肉体を動かすこととは、実際にはもの凄く複雑なことであり、何億という細胞が一糸乱れずに

協力しなければ指一本動かすことすら可能ではない事柄であり・・・・

それは、お喋りすることさえも、実は大変な事柄なのだ。

未知である身体を動かすエネルギーのこともあり・・・これらは全く人智を超えている驚くべき事柄といえる

行為とは実際には「自分が行為している」・・のではなくて「行為が肉体のプログラムに従って

起こっている」のだといえる。これは当然思考や感情にも当てはまる。

肉体やその個別の脳のプログラムにしたがって

欲望や、才能や、選択や、衝動や、好悪や、観念や、感情や、思考も起こっている

それらは脳に起こっている又は脳によって受けとられていると言えようか?


それなのに、人はどうして自分が行為していると実感するのだろうか?

何故、自分が行為し、自分が思考していると錯覚するのだろうか?

また

誰が自分が行為していると思っているのか?自分が行為していると実感しているのは誰なのか

自分が自分の人生を生きており、自分が起こしている出来事であり、自分が選択し、自分の自由意志で

自分の責任で考え、決断していると実感しているのは誰か

それは頭頂から神経系統に入ったものであり、それが自分が脳に入ったので

自分が行為していると錯覚しているものなのではないか??


脳に起こっている思考や感情、欲望、衝動、そしてさらにはその思考や感情や欲望や衝動の記憶

その脳に起こってることがら、脳で受けとってる事柄、脳の記憶の反応、そしてそれらである私、個人、人格

即ち「思考してる私」「くるしんでいる私」「怒っている私」「私が考えている」等の記憶の反応である私と

同一化してしまったのではないか

脳や身体の神経系統に入りったので起こっている行為や思考や感情や欲望やプログラムと、そしてそれらの記憶である私と

完全に同一化したのではないか?




ではその神経系統に入ったものとは誰か?

自分自身を肉体や、脳と同一化し、肉体や脳に起こっている事柄と同一化し、

実際はこの入ったものとは個々の肉体ではなく、個人ではないのに

脳に起こっていることと同一化し、自分は個人だと思い込み、苦しみ、悲しみ、望み、渇望し、安定を求めているのは

心である「私と言う観念」なのではないだろうか?


今のところ私が推測できるのはここまでであり、これ以上のことを推測することは誤解を生じ

間違いを招くのでストップしたい・・・この私という脳の記憶の反応でいくら推測しても、それは真実ではないからだ

観念や信仰や信念は事実についてのこちら側の思い込みであり

それは真実とは言えないからだ。

この私は、私という他と分離していると実感する「私という観念」ではないか