2008年11月北京に於いて行われた高岡光先生による
J.クリシュナムルティに関する講演についての報告書 その一
ジェシカ・チャン(原文中国語 玉井辰也訳)
緒 言
日本人と言えば、総じて何か妙に抑圧感を覚え、私としては通常彼らを「敬して遠ざけ」てきた。ところが、高岡先生と会うことになり、慌てて『菊と刀』を読み返したりした。日本人を理解することにより、この違和感と不安感を除こうとしたのである。所謂「己を知り彼を知れば、百戦殆うからず」という訳だ。実は、この種の準備は必ずしも必要ではなかったのだが、一種心理上の安心と度胸を与えてくれた。
高岡先生の第一印象は、精力旺盛かつ雄弁な人というものだった。自己紹介で、高岡先生は1949年生まれで、今次の日中戦争では、彼の父親は残念ながら訪中したことがないと述べ、参席者の笑いを誘った。幸運にも、高岡先生のほぼ正面に座席を得た私は、会合中仔細に彼を観察することができた。その表情は厳粛、ときたま話しながら微笑む程度だ。ことほど左様に、高岡先生は真摯な人柄であり、心からの朗笑というものは見られない。それどころか冗談や揶揄の風さえなかった。他人の社交上の微笑に対し、同じく社交的な微笑を返すこともない。
英語による講演では、日本人に一種特有の気骨ある口調の自然な流露が見られた。その表情は変化に富むとは言い難いが、その幽邃で明涼な双眸の背後に、無窮の力量、静寂、丹誠が蔵されているようだ。談、Kの「無限の愛」が高岡先生の人生を根本的に変革したことに及んだ際、彼は「表面的人生は苦に満ちている。然し、深く沈潜し、その真を見たならば、その実は甘美なものだ。」と語った。この言葉を聞いた時、私は途方もなく大きな共感と感動に包まれた。
重責ある翻訳の労に対し、〈凡夫〉に多大の感謝。また談話の記録と整理の労に対し、〈若木〉に感謝。その他、補足協力により、一層詳細かつ正確な記録となった功に対し、〈ffsz〉〈韋康〉〈LS〉〈Runsun〉〈凡夫〉等に感謝。
高岡先生の意見・観点が私たちのそれとすべて一致する訳ではなく、議論すべきところも多々あるのは事実だ。実際、我々には驚天動地のことさえ、高岡先生は語った。だが、それでも、高岡先生の観点は検討するに値すると言わざるを得ない。ともあれ、この真摯なる日本人は、私たちを感動の極致に誘い、極めて深い印象を各々の胸裏に刻み込んだのである。
第一章 高岡先生のクリシュナムルティ(以下K)に対する感情
―“Kはこの世界で唯一の私の理解者だ”―
高岡先生は学生時代、途中で所謂「進学放棄」した。父君は大学進学を希望していたが、それは高岡先生の望むところではなかった。少年時代から或る種の事柄を求めていた高岡先生は、1969年竟に日本を離れ、霊的師を求めてインドに旅立った。1970年、幸いにもKに出会い、終生彼に随い、倦むことなくその教えを宣布してきた。
高岡先生にとって、Kは既に彼の父であり、また友でもある。Kの高岡先生における重要性と影響力は、ある意味実の父母を遥かに超えると言える。Kは高岡先生の生命を救済したのだ。そして世界で唯一の高岡先生の理解者となったのである。高岡先生はKに対し、あらゆることを相談でき、Kもいかなる問いに対しても能う限り回答した。畢竟、Kが高岡先生に与えたのは、世間一般で言う「愛」に非ず、この人間社会を超脱した真の「愛」なのである。
高岡先生は語る。もし今生でKと出会うことが無かったならば、その人生は虚しく、無に等しい。偶々、高岡先生の家は裕福だったので、外で働く必要もなく、結婚することもなかった。もしKとの出会いが無ければ、その人生は「食べて、テレビを見て、寝る」だけの生活に堕していただろう。
1970~1986年の間、高岡先生は数次に亘りKを訪ね、食事或いは食後の散歩に加わり、交流を重ねた。高岡先生が自ら誇り、得意になるのも無理はない。何故ならKは自身の生活や事物に他人が侵入し接触することを特に好まなかったからだ。そのKが自ら高岡先生を居室に招き入れ、対談に応じたのだから、彼の欣喜雀躍、その心情の感激、想うべし。その後、高岡先生の認識は、Kは「超人」であるという結論に達した。
会談時、Kは極めて厳粛だが、人に緊張を強いたり、不安感を与えたりはしない。しかも、自ずと敬虔の念を生じさせる。Kに会う度に、高岡先生は完全なる至福の感情に満たされてしまう、と語った。また、高岡先生は現在に至るまで、毎日早朝、先ずKの肖像写真を見、然る後ほぼ毎日おもむろに彼の文章を味読する、と明かされた。
高岡先生の著したK回想録(“The Crystal
Revolution”)は過去の出来事を語るが、実際はKは彼の心裡に永遠に存在し、それは同時に現在であり、未来であり、一切であり、しかも時と共にKの臨在は益々精彩陸離となっている。K逝去後20余年を経て、彼を想い悲嘆或いは失望にくれることはないのかと問われ、高岡先生やや沈黙して曰く「そんな事はありません、何故なら・・・」と。
第二章 高岡先生のKに対する印象と評価
―“Kは進化の最終完成者だ”―
談話中、高岡先生が特に強調したのは、「Kはこの時代における最高至上の霊的導師であり、他に比すべき人間などいない」ということである。
(一) Kの神通力(超能力)
高岡先生は、Kを当今世界最上至高の超人と見ている。ただ、Kはこの力を深く蔵し、公の場ではこの超常力を語らなかった。ところが、ププル・ジャヤカールの『クリシュナムルティ伝』出版後、Kのこの方面の能力が広く世人の知るところとなり、世界を震撼させたのである。
談話の前半部分で、高岡先生はKの「神通力」の常人に非ざる一面を多く語った。Kは幼少期から既にこの神通力を有し、多くの人の病気を治療していたようだ。但し、この種の能力はKの神通力のごく一部に過ぎない。
Kは曾てこう語った。何かについて知ろうとすれば、書籍等に頼ることなくその知識を獲得することができる。人類知識の源泉ともいうべきものに直接接触することができるからだ、と。
居室で、Kは高岡先生に「拙火(クンダリーニ)」について語った。曰く、「私は拙火(クンダリーニ)についてよく知っている―書物から得た知識ではなく。拙火を弄ぶ者の行き着くところ、廃人・狂人の類だ(走火入魔)」と。
(二) Kの使命と役割
Kは神智学会に対し、少なからず批判的だ。但し、高岡先生によれば、Kは後に同会に参加したレッドビーター、アルンデール、ウェッジウッド等に反対したのであり、同会創始者の一人・ブラヴァツキー夫人に反対した訳ではない。
実際にKは、唯一無比の真の世界教師の役割を見事に果たしたのである。高岡先生は指摘する。Kの様な偉大な世界導師が再出現することはここ五百年は無理だと。K自身も臨終を前に、一語を残している。即ち「この様な至高の叡智が働く身体が再臨することはここ数百年はないだろう」(出典はM・ルティエンスのK伝)。
高岡先生によれば、Kのこの語は「巨大な何か」(人類知識・理解を遥かに凌駕するもの)が、その身体を通して働いていることを、自ら認め語った稀有な例だという。但し、Kは既に初期の詩篇の中で、自ら「神秘的なるもの」と霊交のあったことを述べている。それら詩篇の中で、Kが20数歳の時と思われるが、仏陀がその面前に出現し、彼は随い、仏陀の教説を領悟したことが記されている。
高岡先生の説では、Kはその教えの中では「神通(超能力)」や「オカルティズム」を追求することを勧めはしなかったが、決してそれ自体を否定した訳ではないのである。
(三) 仏陀とK
問い; 仏陀とKでは、何れがより高い霊的地位を占めるのか?
高岡先生答えて曰く、どうしても答えなければいけないのなら、仏陀が上だと言う。
Kは晩年こう語ったことがある。「もし仏陀在世時に生を得たならば、天の涯地の果てまで彼に随い行くだろう」(K写真集『一千の月』)。
また高岡先生によれば、Kは曾てこう語った。「仏陀の弟子たちの中で、その教えを真に悟得したのはたった二名、サーリプッタ(舎利弗)とモッガラーナ(目犍連)だけだ」と。
(四) 高岡先生がKを超人と見る理由
先ず、Kが高岡先生に「私には超人的能力がある」と直接語ったこと。次に、高岡先生はインドを度々訪問し、各種ヨガの師たちにヨガを学んだ経験から、次第に直観に基づき各人師の超能力等の真贋を識別する方法を獲得した。その経験から、Kの超能力は本物であり、その他の多くのグルたちの境地は彼には遥かにおよばないとの認識に達した。
高岡先生は語る、「如何なる角度、如何なる方面から見ても、Kは生物進化上の最終完成者だ」と。
(五) 高岡先生の印象に残る日常のK
高岡先生によれば、例えば附近で大音量で音楽を鳴らす人たちには、かなり不愉快だという意思表示をしたそうだ。
Kは茶やコーヒーの類は飲まない。
K自身変貌する時があり、三人か四人の別々の彼が存在するようだ。皮膚の変化や顔貌の変化等を含め、恰も数人のKが存在しているようだと高岡先生は語る。或る時は三歳の童子の如く、或る時は高齢の老人のように見える。甚だ奇妙であり、真のKを知らないのが真実かもしれない。どのKが我々が元来Kだと認識している存在なのか?
(六) 何れのKの伝記が読むのに値するか?
現在、Kの伝記としては、二種類の差異ある伝記が刊行されている。
高岡先生によれば、ププル・ジャヤカールの『クリシュナムルティ伝』は、M・ルティエンスのK伝と共に、或いはそれ以上に読むに値する。その中で、事実関係を述べた部分は真実だろう。ただ、注意すべきは作者個人のKに対する見解部分で、この点に関しては、読者は自己の主体性を以て注意深く検討しながら読まなければならない。
第三章 世界各地の所謂グルたちについて
―“Kは全きホンモノだ”―
(一) 世界で最も代表的な偽グルたち
当初、高岡先生が特に強調したのは、世界各地の「贋導師(偽グル)」問題である。そしてその代表として二名の贋導師を挙げた。一はU.G.Krishnamurtiであり、他はOsho(Rajneesh)である。この両名を信じる者は、Kの教えを聴く必要はない。その逆もまた然りだ。
高岡先生は語る。Osho(Rajneesh)とU.G.Krishnamurtiは根本的に間違っている。特にOsho(Rajneesh)の弟子たちは、しばしばKの公開トークに紛れ込み、少なからぬ混乱を引き起こしてきた。彼ら自身が深刻な病原菌のようなものだ。
(二) 高岡先生のその他のグルたちに対する評価と見解
彼は、他のグルたちにも触れた。例えば、グルジエフ。彼はKには遠く及ばないとは言え、この濁世で、我々凡人を指導するには十分にグルであり得るし、学ぶべきことも多い。
仏教に関してだが、高岡先生は現今の伝統仏教に異を唱える。現代人は仏陀を知らない。経典はあるが、畢竟仏陀が真に何を説いたか、我々は知らないのである。高岡先生は強く主張する―Kの教説と仏教教理を混淆してはいけない。現在この時代にKの教えは完全かつ正確に保存されている。これに対し、仏教経典が仏陀の教えをいかに「記録」或いは「代弁」しようとしても決して及ばない。従って、限りある時間と精力をKの教えを閲読、理解することに用いるべきだ。
所謂「禅宗」に関しては、高岡先生は「中国禅宗の六祖・慧能についてよく知らないので、評価は控えたい。ただ、神秀は後世に伝えられている様な凡庸な僧ではなかった」と述べ、神秀に対し肯定的評価を抱いているようだ。
(三) いかなるグルが本物か? いかなるグルが贋物か?
高岡先生曰く、「語っていることが、本人の理解していることに一致すれば、そのグルは本物。しかし、彼が自らの理解範囲を超えて語れば、贋物。信じてはいけない」と。
第四章 高岡先生のKの教説に対する姿勢
(一) Kの教えを理解するとは畢竟いかなることか?
目下の処、Kの教えを理解した人間はいないというのが、高岡先生の認識だ。
では、高岡先生にとって「Kの教えを理解する」とは、一体いかなることを意味するのか? それは言葉の理解ではあるまい。また、Kの様な超人になることを意味するものでもない。それは、即ち我々の一切の問題がすべて消滅することを意味するのである。それでも、Kの境地には遠く及ばないが。
高岡先生は語る。もしKを理解し得たならば、かの根本的変革が起こる筈だが、目下の処そのような根本的変革の起こった人はいない。
ただ、現在刊行されているKの書籍で判断する限り、物理学者のデイヴィド・ボームは他に比肩し得ない理解の領域に達している。Kとの問答において、かくも深い領域にまで入り得ることは稀有なことだ。
(二) Kの教えを理解した人が皆無ならば、彼の70年に亘る人倫教導は無駄だったのか?
高岡先生答えて曰く、「Kの教えを完全に理解することは無理かもしれないが、その聴聞・閲読により、既に多くの人に自己変革が起こっている。その意義は決して空しくはない。」
(三) Kの教えを理解する上で、我々の中にいかなる障礙があるのか?
高岡先生、沈思良久して曰く、「私にも分からない。」
(四) Kの教え理解における二種の邪路
① Kの思想をあまりに浅薄軽易に解釈すること。
② Kの著作の読後、彼の言葉・生活を猿真似すること。
(五) Kの教えに関する議論の際、よく主題となる問題群
① 我々はいかにKの教説を聴聞すべきか?
Kの教えに対する従来の見方を一切放棄。又Kを他の誰かと比較することも不要。
② 頓悟と漸修の関係?
高岡先生によれば、頓悟の頓は心理意識上のこと、身体薫習的には要時間的漸修。
③ Kの教えの「核心」は何か?
高岡先生曰く「K自身が既にその“核心”を親しく著作等で残している。然るに、“読まず悟らず”では答えようがない。Kの一句さえ味得できれば、それが即ち“核心”の領悟だ。何故ならKの思想は“一以て之を貫く”だからである。」
④ 覚醒
高岡先生は語る。「Kは常時ある種の“覚醒状態”にある。間断なく覚醒し、睡眠中も同様の覚醒状態を保つ。Kは完全にこの境地に達している」と。また、「Kはこの“間断なき覚醒”の重要性について常に強調した訳ではないが、極めて重要なことだ。」
第五章 その他、高岡先生の見解と姿勢
(一) 高岡先生自ら自己の使命を語る
① Kの教えを理解すること
目下Kの教えを完全に会得するまでには至らないが、生涯を通して会得できることを希っている。
② Kへの世人の誤解を一掃する
Kの名声は愈々高まっている。但し、その評価の質は錯誤に満ちている。高岡先生はその是正に貢献したいと述べた。高岡先生は、より一層多くの人、特に若い人々が、Kを知り、Kを読むことを望んでいる。但し、Kの原文を。
③ 他の霊的導師の顕彰
Kが当代随一至高の導師であることは自明だ。ただ、世界にはまだまだ勝れた導師たちも存在する。彼らは世界の或る地に人知れず隠棲している。高岡先生は、彼らを顕彰し、世に紹介したいと願っている。彼らは、或いは沙門や道士の類かもしれない。
④その他の関心事
高岡先生は、漢方や太極拳の修得に関心があり、その方面の真の実力ある師を求めている。
(二) 高岡先生の「オカルティズム」観
高岡先生は「オカルティズム」に格別の関心を抱いているようだ。Kも決して「オカルティズム」を否定したわけではない。原始神智学は一種の科学であり、Kがそれを否定するわけがない。
高岡先生によれば、或る物理学者などは、密かに神智学経典を研究し、その後本業の研究に利用し、ノーベル賞まで得たということだ。エジソンも神智学に触れたことが知られている。
(三) Kの教えを伝える際の基本的姿勢
高岡先生は、再三再四Kの原文を読むことの重要性を指摘した。翻訳者の私的夾雑物や意図的曲解を排除するために。先生によれば、日本では数十冊以上のKの翻訳本が出版されているが、一冊もKの真を伝えるものはないそうだ。それは、単に翻訳水準の問題ではなく、原文のみが正確かつ誤りなくKの意図を伝え得るとの認識のようだ。
(四) 性に対する姿勢
高岡先生によれば、「性」に関してはグルジエフの指摘が参考になるとのことだ。即ち、性行為はその人に合致した相手とでなければならない。さもなければ将来に禍根を残す。
(五) Kとの興味ある対話の一節
高岡先生: 古代のインドは極めて美しかった。2万年以上も前の話ですが。
K: もっと前です。
高岡先生: 但し、現在のインドとは無関係です。
K: ええ、自分の祖母は美人だったと自慢するのと同じです。
(★この対話における古代インドとは幾多の偉大な経典類を産出した時代のことであり、美とは偉大な文化に内在する美を指す。現代のインドは既に当時の光輝は失われているのかも知れない)
2008年11月23日 薄暮の北京西湖餐廰にて