素粒子
本日は余り普段は思考されない素粒子について考えてみた。
素粒子が時間と空間を構成しているのではないか。
素粒子が質料を構成している。・・・そして質料とは私達人類の思考のことではないか。
私達人類の意識とは素粒子の各段階の働きであり、その働き、活動、即ち質料の質と量であるように思える。
諸体の脳に於ける化学物質の作用と反作用がこの思考と感情の中身であり、知覚と認識という働きを起こしている。
即ち「私」が知覚し、「私」が認識しているという、全く反対の根本錯覚=「私・自己感覚」を引き起こしている。
思考や感情とは化学反応であり、この質料であり、素粒子の働きなのではないか?
私である思考と感情とはこの質料・物質の働きなのではないか?
これらの知覚と認識とは意識作用のことであり、覚醒と夢見という意識作用は熟睡が支えている。
自己とは熟睡によって支えられているのだ。
そして、この輪廻世界は熟睡によって支えられているのではないか。
熟睡という非意識、非空間、非時間こそが素粒子が出現する母体であるように
熟睡からマインドという物質(若しくは質料)が出現しているように思える。(色即是空であり空即是色である)
時間と空間はその熟睡という非時間・非空間から出現している素粒子・質料の働きのように思える。
私達人類の内部と外部、知覚と認識とはこの素粒子の働きそのものなのだ。
時間と空間とはこの素粒子の働きなのではないか?。
そしてこの時間と空間、各次元と、その各次元を知覚し認識する主体と知覚し認識される客体とは熟睡から生じている。
非常に大雑把で、あくまで推測ではあるが
私とあなた、内と外、内部と外部、意識と無意識、各次元、輪廻転生、時間と空間などとはこの熟睡という非空間・非時間から
出現している素粒子の働きのように推測される。
自己と他己、あなたと私、こことあそこ、過去と未来というこの分離の実感はこの質料・素粒子の働きそのものであるように
思われるのだ。
肉体の脳のみならずあらゆる意識を生み出している諸体の脳に起こっているこの化学反応若しくは質料の変化
または素粒子の働きが自己と言う「私という観念」とその働きを生み出しているのではないか?
私・自己感覚とは物質であり、質料であり、化学物質が起こしている反応なのではないか、即ち素粒子の働きなのではないか
そして、この素粒子とは非空間、非時間である空から生じている、即ち熟睡から生じている。
人類の意識の働きとはこの素粒子の働き、この質料の働き、この各次元の化学物質の働きであり
それが私であり、知覚であり認識である。そしてそれらは空から生じている、熟睡から生じている様に見える。
思考やマインド(時空間であり・自他の分離)は思考やマインドではないものから生じている。
素粒子は空(熟睡)から生じているのだ。
そしてこの内部と外部、私とあなたとは、この素粒子の働きなのではないか
時間と空間、過去と未来、ここと彼処、現世と来世、輪廻転生というこの分離とは熟睡から生じている。
この素粒子の働きなのではないか。
この限定されている脳が思考と物質を分け、内部と外部に分けているだけであって
実際には思考も物質で有り、物質も思考で有り、内部も外部も共に同じこの質料なのではないか。
勿論ここで言うところの熟睡とは空であり、無限でありこの結果である意識には補足できないけれど
私達人類のみならず、あらゆる意識、あらゆる有情、無情の実体であり基底であると考えられる。
空若しくは熟睡とは、この意識という素粒子を成立させている基底であるに他ならないと。
これを空と呼ぶか未知なるものと呼ぶか、眞実在と呼ぶかは、根源と呼ぶか、それがこの
意識の座とも言うべき個別のこの個体の脳に起こっていないので理解は出来ない。
即ちこの久保栄治という個体の脳には理解することは出来ない。
おそらくその理解とはこの素粒子を超えている根源又は基底又は源泉又は空又は熟睡という
未知なる超意識がこの意識の座(脳、諸体の脳)を変換なされたときに意識化されるのであろう。