内部
内部について考察してみた
内部・内面とは何だろうか?それは心のことであり、意識の事であり、専門的には思考という記憶の反応のこと
また内部とは衝動と欲望と思考と感情と記憶と感覚と知覚と認識のことでもある。
大脳生理学的に言えば脳内物質の化学的反応とでもいうのであろうか。
それは生起している思考(心)及びその思考(心)の記憶の反応のことではないか。
その起こっている(発生している)記憶の反応が「私」という実体であり、私という実体感覚なのではないか
私・自己とはその記憶が生み出している実体感覚のことなのではないか。
実際には心とは起こっている現象であり、それをその[条件付けられている脳のシステム]が捉えて自分が生じている。
心というものが生み出した私なのに、「私の心だ」という逆転現象が生じている。
私の心ではなくて、心が私を生みだしたのである。
内部では私という自己自我の実体感覚が生じているがそれは継続している記憶の思考のことなのではないか。
その記憶が死後も継続してワサナとなっているのではないか
全てを観照している観照者が変わらないので記憶の継続も可能になっているというのではないか?
脳のシステムよって記憶が働くことによって、その記憶が「私」という実体感覚を生じさせているのではないか
生じ、起こっている心、それが脳のシステム(条件付け)によって認識されるとき
記憶が作動して、その記憶が私の心、私の肉体、私の知覚、私の認識、私自身、内部と実感している。
けれども実際にはこの個人的な私の内部とは、人類で同じであり、中身も仕組も構造も全く同じものではないか
この私の肉体、私の感情、私の記憶、私の個人とは、起こっている心とその記憶の反応の中身のことではないか
また外部とは脳の知覚によって構築されている時空間であり
人類共通の同じ構造による「脳」、その脳自体の知覚している世界に他ならない。
外部とは脳の条件付けられているシステムによって認識されている脳による知覚の世界である。
その脳によって知覚する外部世界とは
人類が同じ構造の脳なので、同じように時間や空間を生じさせ、同じ主客分離の知覚や認識が生じている
それと同じく意識に関しても
脳のシステム(諸体)によって生じている記憶の反応であり、その記憶の働きがうみだしているものだ。
それを称して私の内部、私の心と言っているが、それは決してわたしでもあなたのものでもない
それは脳のものであり、即ち心のものなのではないか。
この事を極論すると外部も内部も脳内世界であり、
内部及び外部とは脳を生じさせ、維持している「心」そのもののようにも思われる。
心が内部であり外部なのではないか・・だがそれは決して私個人の内部ではない
私も内部もそして外部も心が生じさせている・・ここ内部と外部とは、心が生み出している現象世界なのだ
内部とは実は全く個人的なものではなくて、個人的だと思い込んでいる記憶というシステムが生み出しているもの
記憶の実体感覚・私のことなのではないか。
その実体感覚という記憶の反応が内部と外部の分離であり、私とあなたという分割なのではないか
内部と外部は同じ一つの心の側面であるにも関わらず、それを脳の条件付けられた記憶が分割しているようにも思える
主体と客体の分割は心が生み出しているのではないか?
この記憶の反応である「私」が、記憶を生み出したのでも、その記憶の反応を生み出したのでもない
私が私を生み出したのではない、私は私のものではない
肉体は、その記憶の反応のものではない
諸体はその記憶の反応のものではない
システムによって生じている記憶の反応「私・自己及びその実体感覚」とは、その記憶の反応のものではない
私も肉体も行為も内部も外部も心自体ではないか
私自己とは心のことであり、その心が世界と自己を分離し、内部と外部を分離しているように見える。
さらには、その心とは根源によって生じていると思われる
個別的霊魂とはその記憶の反応のものではない
根源がこの個別的霊魂という窓(一細胞)を通じて現象世界を投影しているようにも思える。
私も自己も肉体も諸体も、そのシステムも、即ち内部も外部も心のものであり
この自己とは心の性質そのものであり、心が生じさせているものではないか?
心が内部と外部の分割を生み出し、私という実体、及び行為を生み出しているのではないか?
行為も私も「投影されている心」の姿ではないか?
時間や空間、そしてそれを時間空間と解釈する脳のシステムも心によって生じている
シャンカラが私は心ではないというとき、それは心を生じさせている未知なる根源の意識
現象世界を生み出している根源の意識そのものであることを示している
それは思考や心を超えている源泉の意識であることを意味しているのではないか
思考や心を超えた、思考や心ではない「未知なる意識」のことである。