条件付けられている脳
条件付けられている脳に関して思考してみた。(この思考も或る個体の脳の条件反応だが)
この私も、この考えも、条件付けられている脳から生じている反応であることを始めに断っておきたい。
脳は条件付けられている。
この脳が条件付けられているからこそ、「私の脳」「私の考え」「私の選択」「私が生きている」「私が行為している」などの
「私」という錯誤が生じている。
私が条件付けられているのではなくて、脳が条件付けられているから脳の条件反応として「私」が生じているのだ。
脳の条件付けが解除されたなら一体どこにあなたとは異なる私が存在しているのだろうかと。
この私の知覚とは現段階の人類の脳の状態であり、人類の一般的状態だ。
即ち条件付けられており、この地球という人類の個体の脳の総体的平均的レベルの状態を現している。
この私の知覚や認識とは実際には私の知覚・認識ではなくて、脳の状態による脳の知覚認識である。
この考えは私の考えではなくて、脳による条件反応、記憶の反応であり
どこにも私の考えなどというものは実際には存在していない。
条件反応する記憶、それが私の内実である。全人類の脳は同じように条件付けられているので
全人類がこの脳は自分のもので、この身体は私のものだ。自分は個人で特別だと思っているだけだ。
この脳による内的世界も外的世界も私が知覚し見ているのではなくて
条件付けられている脳が見ている内部と外部なのだ。
私が知覚し認識しているのではない、条件付けられた脳が見ていて知覚し認識しているのだ。
時間と空間とは人類全てで同じように、条件付けられている脳がそれを知覚認識しているのであり
条件付けが解除され、現実が顕わになったなら、時間空間においても全く異なる認識が生じていることだろう
時間や空間は実在しているのであろうか、賢者が言うように「今」だけが有るのではないか?
そこには私とあなた、自と他の区別はないことだろう。
脳の条件付けが解除され、自我は消滅し、新たなる知覚と認識が誕生したのだ。
また同様に、過去現在未来という認識形式とは条件付けられている脳の結果であり
これらはこの人類の条件付けられている脳の反応、脳が受信している心のものだ。
それ故、もしこの条件付けがある程度解除され、脳の機能が改善されたなら
受信機能であるところの脳が受取っている現在の思考や意識よりも、より高次の意識を受信できるようになるに違いない。
くどいようだが、私が見ているのではない、見ているのは脳で有り、脳が見ているのだ、脳が反応し、起こっている事を間違って解釈しているのだ。
私自身とはいないのではないか。
私・個人とはこの条件付けられている脳が生み出している錯誤なのではないか
私とは脳が引き起こしている錯覚なのだ。私とは脳が生み出したエレメンタル(想念形態)なのだ。
この私という錯覚である記憶はエレメンタルとなって集合し、全人類の内面というものを形成していることだろう
この巨大なエレメンタル(潜在意識)と人類の各個体の脳が繋がり、ますます私という錯覚は巨大化し固定化していく。
人類の脳が条件付けの結果としてこの個体群から生み出されたエレメンタルは集合し
今度はその巨大なるエレメンタルを各個体の脳が同調し受信することで、
テロの悪循環、宗教という名の「巨大なエゴ」のコントロール下に陥ってしまう。
至ろう、なろうとし、実現の方法を求めている「条件付けによる反応・エレメンタル」の動きを注視しよう。
虚偽を虚偽と見ることが、虚偽の中に真理を見ることに繋がっている・・と
虚偽を虚偽と見ることの中に、虚偽からの解放がある・・・と教えられている
「選択という観念による行為」を正見することが「無為の為」に繋がっている・・・と言われている
この私・個人という錯覚、私という実体感覚、至るという時間の錯覚は条件付けられている脳の反応なのではないか?