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生きているのは誰か?


生きているのは誰なのであろうか?

誰が生きているのか?

私が生きているのか?それとも私という実感を生み出し維持させ回帰させている源泉が生きているのであろうか?


人生とは私の人生であるのか?

それとも過去世や来世もふくめこの人生を生きているのは、

この私として特定の人生を生きているのは、その源泉自身なのではないのか


人生を生きているのは私なのか? 

それとも、この個別の私として生きているのは未知である「根源又は源泉」であるのか?


この個別の私とは、或る特性を持ち、世界中でたった一つのオリジナルな私のことだが

この世界でたった一つのオリジナルな花を創造しているのは根源であるあなたに他ならないし

あなたご自身がこのオリジナルな花として生きているのだ


その世界でたった一つの誰とも替えることの出来ない花とはだれのものであろうか?

誰が手入れして咲かすのであろうか?

他の誰とも替えられず、他の誰とも比較できない、世界でたった一つのこの私とは

「源泉であり根源であるあなた」の部分に他ならないのではないか

あなたご自身が現象世界として生きておられるのではないか



誰が呼吸しているのか?

それは私が呼吸しているのではなくて、呼吸が起こっているのだ

この身体には「誰のものでもない大いなる叡智」によって呼吸が起こっているのだ


誰の脳であるのか?

それは私の脳ではない、脳とは私が作ったのではないからだ

心も私の心ではなく、知覚も私の知覚でもなく、認識も私の認識でもなく、個性も私の個性ではない

私自身さえも私のものではないからだ。

脳を生み出し、私を生み出し、心を生み出し、知覚を生み出し、認識を生み出し、個性を生み出して

そして私を生み出しているのは大叡智に他ならない。



誰が生きているのか?

それは私が生きているのではない。源泉が私として生きておられるのである

「私という個別性」と「他と異なる特性を持っている自我」と、

その私が生きているとの私という実感を生み出しこの知覚と認識を記憶を生み出し継続させているところの

「未知なる大叡智」それ自体が生きているのではないか?



誰の私、誰の自我なのであろうか?

自我の特性、自我の心、私・・・それはこの嫉妬心や恐怖心や比較競争する心であり、将来を心配し、

常に安定や安全を求め、神との合一を願い、良くなることを願っているこの私のことであるが、

この私とは私が創造したのであろうか?

そもそもこの私とは私のものなのであろうか?

いやいやこの私は私が創造したのではなくて創造されているものであり、私のものではない

この私は私のものだという錯覚も、錯覚である私自身も源泉によって創造され維持されているものであろう


この私同様に、内面である嫉妬心も恐怖心も、悲しみも喜びも、評価や判断や、善悪や、愛憎も

内面の投影である良いことも悪いことも、失敗も成功も、病気も健康も、運も不運も

私という自我と同様に起こっていることがらなのではないだろうか?



実際には爪を伸ばすことも、食事をして、消化し排泄することも出来ないのに、私達は自分の肉体であり

自分が健康になったり病気になったり、自分が息をして、自分が苦しみ、自分が悲しんでいると思っている

この私は私のものだと思っている、この人生は私の人生だと思っている。


しかし実際には爪を伸ばすのはむろんのこと、この個性も、私という自我も創造されているものであり、

この自我を通じて、自我を創造している大叡智が生きているのであり

大叡智が演じているのに他ならないのではないか


すべては大叡智・大源泉の中に在り

大叡智・大源泉の他にあるものはない

すべてが大叡智の中で起こっている事柄であるといえる。

この私という錯覚も、錯覚である自我も、心も肉体も諸体も個別的霊魂も

マーヤをも含めて全てが大叡智の中に起こっているのではないか




・・・・との思考がこの個体に生起している