意識の座
何故、私達は生きていられるのか、それは心肺が働いて停止させられていないからだ。
何故、私達の自己は継続できるのか、それは熟睡の後、目覚められるからだ
では何故、私達は継続でき、朝、目覚めることが出来るのだろうか・・・それは「意識の座」が実在しているからだ。
意識の座とは「意識」が去来する「座」であり、意識ではなく、意識と無意識とが生じては去る座のこと。
この意識の座に私というマインドが去来しているのである。
これはラマナ・マハリシのいう映像が投影されるスクリーンのこと。
これなくしては朝の目覚めもなく、毎日の生活もなく、私という苦しみの継続も、苦界輪廻もあり得ない。
覚醒と夢見と熟睡があるのはこの意識の座があるから成立している。
一晩眠っても次の朝、目を覚ますことが出来るのも、「意識の座」があるからである。
意識というこの脳の細胞の活動をあらしめ、心臓を動かしあらしめているもの、DNAの設計者、カルマの実行者
その生命そのものである「意識の座」があるからにほかならない。統覚機能が働けるのも「意識の座」があるからだ。
この「意識の座」に聖なるマーヤが投影されている、現象界が投影されている。
即ちそれは「私」「私の」「私が」というマインド・私という観念のことであり、
その中身とは行為が行為者を生んでいるのに、其れを逆転して「私は行為している」とし、
思考が出現して「思考している私」を生んでいるのに、其れを逆さまに「私は思考している思考者」を生み出し
脳のシステムによって知覚は起こっているのに、それを真逆に「私が知覚している」としているのは
私とは実在ではないのに行為と思考と記憶と知覚を使って私と言う錯覚が生み出されているからに他ならない。
脳死、肉体の心臓並びに呼吸の停止と共に、この生命である意識の座は諸体と共に肉体から去るので、意識の座は
次の精妙身体の脳へと、そして次の輪廻で得た新しい肉体の身体と脳へと移行していくが意識の座自体は不変であり変わっていない。
「私」「自己」とは意識で有り、統覚であり、認識であるので、意識の座に顕れては去るものである。
「意識の座」とはこれら分離している自己というものが生じてそして去る「座・場」のこと。
私すなわちマインド、即ち心とはこの「意識の座」に現れては去るものである・・其れを熟睡が証明している。
この意識の座は、人間だけではなくて、あらゆる生物などにもあることだろう、何故なら熟睡からの蘇生があるからだ。
意識の座には熟睡と夢見と覚醒の三つの状態が現れ、、そして私達は私が目覚めた、私が眠った、私が夢を見たということだろう。
しかし、本当は私に関わらず目覚めが起こったのであり、眠りが起こったのであり、夢が起こったのである。私こそ脳の結果なのである。
誕生も死亡も起こっており、再誕も然りだ。行為や自我・自己と同じようにそれらは「意識の座」に起こっていることだろう。
さて熟睡などのそれらの三つの状態が継続することが出来るのは、ひとえに意識の座というものが存在しているからである。
しかし意識の座そのものは認識主体という、主体自身を生み出しているものであるから、知覚や認識の対象とはなり得ない。
主体と客体の区別、主体と客体を超えているからである。
すべての人類に等しく存在している「意識の座」、個を超えているが個を支えている「意識の座」、
私やあなたを生み出すが私やあなたではない「意識の座」
意識を超えているが意識を支えている「意識の座」
マインドを超え、無明を超えているが、マインドを支え無明を支えている「意識の座」
これがあるので夢見と覚醒と、熟睡が成り立ち、輪廻が成り立ち、「私の人生」「私の行為」「私の自分」という錯覚が成り立っている。
現象界のこの私という自己意識が成り立っているのは、この「意識の座」が、これらの三つの意識状態を支えているからに他ならない。
自殺などによって意識から逃避しようとしても、この意識を超えている「意識の座」は肉体でもなく、脳でもなく、意識でもないので
この「意識の座」には同じ自殺をした自我が再び戻ってきてしまう。輪廻とカルマは続いていくのである。
意識の座とは意識ではない。意識を超えて存在しているから。これは意識ではなくて「存在」と言える。
意識の座とは意識でも無意識でもなく、私でもあなたでもなく、私で有りあなたでもあるものだ。
なぜならここから私やあなたは生み出されるからである。だがここには私やあなたという区別はない。
何故ならこの意識の座とは、個別性を支え生じさせているもので有り、個別性自身ではないといえる。
脳や私でもなくマインドでもないが、脳や私やマインドをあらしめているものといえる。
万人共通の「意識の座」から、私という意識と無意識が生じており、そしてその「意識の座」が継続することによって
この現象界というマーヤも輪廻や根本無明も継続している。
私という「私という観念」も「私は」「私が」という分離している実感を持つ恐怖、自尊心、傲慢、卑下、悲しみ、自己関心、不安
即ち自我も、この「意識の座」から生じている。
この意識の座があるからこそ、輪廻は続き、毎日の繰り返しも続いているが、意識の座自身とは意識でもなく、自己でもなく
知覚でもなく、記憶や心でもなく、認識でもない。むしろ意識と五感と知覚と認識を支えているもので有り
同一の自我が目を覚ますことが出来るのもこの、意識の座というものがすべての自我の根底にあるからに他ならない。
「意識の座」それは知覚されないし、認識されない。何故ならこれは知覚や認識ではなくて知覚と認識を生み出し支えているものであるからだ。
「意識の座」とは意識の事ではなく、この人類共通の意識と無意識の継続を支えているものであり
自分が生き、自分が行為している、自分が考えているという錯覚を支えているものである。
この座なくしては自我の存続もあり得ず、苦しみもあり得ず、苦しみからの解放も、無明からの解放もあり得ない。
毎日の自我を支えているのは、熟睡からの目覚めで有り、それを支えているのが「意識の座」であり
それはこの輪廻を支えているものに他ならないのだろう。
と思索している。