真我と自我は異なっているのか
真我と自我は異なっているのだろうか?
真我と自我が異なっていると実感しているのは自我であり
そう思い込んでいるのは自我の方だ、真我の方ではないと思われる。
私という観念であり自我であるこの個別的自己は真我と分離しているのだろうか?
個別的自己(という汎私という観念)は真我のなかにあるのではないだろうか
(現象とは実相の中にあるのではないか)
この意識している私とはこの私が創ったのではないことは誰にも明白だ
私という観念=自我は真我から発生しているのではないか(投影されているのではないか)
熟睡から、これらの私という観念である自我意識は生み出されているのではないか
私・個別的自己は真我と異なっていると実感しているのは誰か?
自分は自我であり真我ではないのだと実感しているのは誰か?
勿論それは、その私・個別的自己である「私という観念である無明の汎意識」なのであって、その記憶だ
その無明がどこから来たのかを無明は知らない
自我は自我がどこからなのかを知らない
意識的自己(既知なる自己)はこの自己がどこから来たのか知らない
私という観念は私という観念がどこから来たのか知らない・・・それは熟睡から生まれているのではないか
未知であり「熟睡」である真我からすれば自我(エゴ)と真我は分離していないのではないか
この無明の意識(私という観念=自我・私達=覚醒時と夢見時の知覚と意識)も
熟睡(という非分離の非個人であり心なく見ている観照意識)
から生み出されているのだと。
マインド側から見た熟睡とは何か
真の私の一部である個別的霊魂の統覚機能が充分には目覚めていない状態のこと。覆われていること。
これは個別的霊魂の状態(段階)だということ。自身の内奥にある「気づき」が誕生していない状態。
けれども真の私の一部が露呈している状態のこと。
個別的霊魂はマインドと同一化しており、マインドが休止しているので自分は眠っていると思っている。
眠って熟睡しているのはマインドであり、熟睡というマインドがない状態を見ているのだが
統覚機能が未発達のために熟睡を観照している内奥の意識に繋がらない。
各体の脳(現在意識を司っている部位)が眠っているのだ。
即ちその心・意識・知覚が機能していない状態であるにすぎない。
熟睡とは心は休止で不在だが観照や気づきはそこに在る。生命が去っていないからだ。叡智はそこに在る。
私・心・意識・知覚が機能していないだけで、
その「心がない状態」を観照している真の私に、「心ではない自己自身」に気づくことが出来ないのだと。
即ちこの熟睡状態とは各体の脳の夢見と覚醒、すなわち、それらの心は休止していて
その知覚・意識は眠っている状態であるが、個別的霊魂の「状態」はそのまま露出している・・ということだ
熟睡中では「私という観念」や「その意識」「マインド=私」は休止している。
「思考」や「感情」「知覚」「欲望」「記憶」「行為」「出来事」と云った覚醒と夢見の意識は休止している
従って真の私の一部である個別的霊魂の状態はそのまま露呈しているのである
この迷える個別的霊魂とは観照者である真の私の一部なのだと。
この状態を心である無明側から見ると「熟睡である”心なき観照”」とは「無」・「空」・「無意識」に見えるが
その熟睡こそ「思考なく観照している気づき意識」なのではないかということ
だが、マインドである私という観念である私達は
その心なく観照している真我からの全体性の意識を熟睡と捉えているのだ。
その熟睡側の純粋意識=「心なく見ている観照意識」からすれば
こちら側である「私達である覚醒と夢見の現在の意識」とは熟睡から投影されている映像に過ぎない、と云われている。
こちら側が夢であり、その熟睡という観照意識のあちら側が実在なのであると。
夢側は知覚と自意識と私という観念と記憶・心を使って投影されているので、
熟睡側が逆転して非実在のように意識され知覚されているのだ。
この知覚される対象と知覚している私とは結果であり、全ては熟睡である未知から起こっているのではないか。
この鍵は熟睡(空)の意識化にあるようにみえる。各体の脳が純粋化することが起こることが必要だ。
だがこれは意識が意識的に為したり、することではなくて、意識が透明化される事が熟睡側から起こるのであろう。
そしてKが云われるように「気づきとは熟睡中も途切れずにあります」と云うことが起こる。
自我(エゴ)は真我の中にあって、真我と分離しておらず
真我が自我(エゴ)という心・マインドで以て、多くの個人として表現しているのではないのか。
無数の記憶の私・人格を使い、ワサナを用い
各世に渡る輪廻の自己であるコーザル体を使い
地球上の個別的霊魂という統覚機能(窓)を用い
私という観念でありマインドであるところの覚醒と夢見の意識を投影しているのは
熟睡であり全体性である真我なのではないだろうか
自我(エゴ)は真我が使用しているのであり、自我(エゴ)とは真我と異ならない。
私・自我とは真我の表現媒体なのだ。
光が自らである光を際立たせるため、光が闇を生み出したのではないか
愛が自らの愛を自証するのは、磔が必須であるように
自我(エゴ)がみずから、十字架を背負って磔になることが、真我を顕わにするのではないか
熟睡から、私という観念である根本無明が生まれたのであり
その熟睡とは、覚醒や夢見である個別的意識やマインドにとっては熟睡だが
熟睡という未知なる意識にとっては実在の純粋意識なのであると
熟睡とは、”熟睡から生じた自我(エゴ)であるこの意識”にとってはゼロであり、空であり、無であり熟睡だが
熟睡である真我の観照意識にとっては、こちら側である、覚醒と夢見の意識こそ、
即ちこの私こそ
この記憶と、知覚と、行為と、人格こそ
真我から投影されている夢なのではないか
との思考が起こっているこの頃である