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どの身体に入ったのか



私達・個別的霊魂としては、どの身体に入るのか、どの身体に入ったのか?そして去るのか?

私達が入ったこの身体・・とは、どのようなDNAをもち、どのような脳であり、どのような意識を持ち、

どのような運命や行為や才能を持っているのか?


中国人か、日本人か、韓国人か、北朝鮮人か?それとも次元の全く異なる種類の生物か?

それともこの地球以外の星の生物の身体にか?


私達・個別的霊魂がどのような身体に入るのかは、それはこの私達自身である個別的霊魂の状態に拠るのではないだろうか?

この肉体も、この諸身体も私達・個別的霊魂の状態によって引き寄せたのではないだろうか?

個別的霊魂の状態とは、グレジエフが言っていた本質と人格というあの本質部分の状態のことであると思われる。

その本質部分とは「主客に分離していない真の私」+個別的霊魂+コーザル体≧サイキック体・ノエティック体などの状態のことであり、

その個別的霊魂が、その前回に宿った「身体と意識と行為」のことを自分の身体だ、自分の意識だ、自分の行為だと

その思考や感情を自分のものだと錯覚しているが故に、その身体のカルマを引き受けてしまったのではないか?

その同一視ということで、その身体のカルマを引き受け次の身体を得てしまう事になるのではないだろうか?

だがしかし、さらにはこの個別的霊魂には可能性が有り、

自己観察による脱皮が起こることによって自身の内奥の「気づき」が開花するのではないか?



そして人格部分とは、この今回、纏っている身体の脳のことであり、この脳の記憶の反応のことであると思われる。

私達・個別的霊魂はこの脳に縛られているが故に、脳の意識である記憶の反応や

熟睡や夢見や覚醒という脳の状態に従属している。

私という観念の主体である個別的霊魂(統覚機能)という意識の座が肉体脳に入り

肉体の脳と結合しているため、脳が眠るとき、個別的霊魂(統覚機能)である現在意識も眠っている状態になる

諸体や個別的霊魂の意識も脳に従っているために、

脳の現在意識にはこの個別的霊魂の意識はハッキリとは意識されないでいるのだろう。


だが、この肉体脳の記憶の反応、これとは別に、異なる知覚や意識を持っているサイキック体やノエティック体など

諸身体の知覚や意識状態もあるのではないか。

けれども脳が条件付けられているために、それらの意識を現在意識化することが出来ず

これらの諸身体の意識も、肉体の脳と結合しているので、この肉体の脳の状態に左右されてしまうことになる。

薬物が”肉体脳に浸透している諸体”にまで確実に影響するのは、諸体と脳が繋がっているからにほかならない。


私達・個別的霊魂が今回入っている肉体には肉体としてのエーテル複体と呼称されている氣・エネルギー体があるけれど

それとは別に、この肉体に宿っていて誤って肉体の意識の状態に左右されてしまっている個別的霊魂としての知覚と意識

そして諸身体としての意識・知覚状態もあるということ。

このサイコ・ノエティック体やコーザル体の意識と知覚とは、この私達である個別的霊魂の状態のことでもある。

しかし、まれにわざわざ高次の状態にある個別的霊魂が恵まれない肉体に宿ることもあると云われている。

けれども、高次から見た場合、この個別的霊魂とは統覚機能であり、統覚機能とは私という観念の主体であるのではないか?



私達が肉体に宿るとき、肉体の持つ運命と、カルマと、行為など、その身体のDNA及び脳の状態に従うことになる。

生命と共に私達・個別的霊魂がコーザル体と一緒に誕生時の呼気によって新生児へ入る前に、

その母体内の受精卵・胎児には予めこの個別的霊魂のサイコ・ノエティック体などがワサナ

とカルマを伴って「決められている運命を持つ肉体」として形成されていると言われている。


キリストが、「思いを尽くし、心を尽くし、精神を尽くして主を求めよ」と重なって言われているのは、何故なのか?


思いを尽くすの思いとは、DNAによって「決められているように行為している肉体」その脳の状態、意識の状態のことであり

心を尽くすとの心とは、この「意識と行為を持っている肉体」に入ったサイコ・ノエティック体の意識と知覚のことではないか

精神を尽くして、と言われているのは「肉体である脳の意識」の中ではあまり通常の意識上には顔を出さない本質部分

私という観念である私達の個別的霊魂の意識の事である、と思われる。


クリシュナムルティーやラマナ・マハリシやシャンカラ達が語りかけておられるのはこの私達の個別的霊魂に対してであり

私達である個別的霊魂に対して

肉体脳の記憶としての意識や、DNAからの意識、ワサナの意識や、カルマからの衝動や、

自分自身である私という観念に同一化しないよう

即ち心と同一化しないように注意を促しているのではないだろうか?

個別的霊魂とはマーヤの中にあり、私という観念の中枢でもあることだろう。


この個別的霊魂のさらに内奥に時間と空間と次元や「主体や客体の分離」を超えている真の私がハートに控えていることだろう

思考、意識、知覚、行為、運命、人生、私という観念、個人、人格


これら全てのことが起こっているのではないか。

心や行為や意識は脳と同じく来ては去って行く。

カルマも去来している。マインドも去来している。起こっている現象として


畢竟するに、これらのことはこの頭と、このハートに位置する個別的霊魂に起こっている事柄なのであろうか

だからこそクリシュナムルティーは私という観念である個別的霊魂に触れなかったのではないか

Kの立っている位置とは個別的霊魂を超え、

即ち現象界という個別的霊魂や諸体である心や思考を超えた位置から私達に語りかけているからである

・・・と思考するこの頃である。