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起こっていることの結果



近頃頭で思っている事柄・・・・・
(実感ではないので申し訳ない)


私が恐怖を感じ、私が恐怖を観察し、私が恐怖を見ている・・と、世の中ではそのように実感されている。

私が自分の人生を歩み、私が自分の人生を自由意志で生きている・・とそう思われている。

そしてこの人生の中で

私は恐れており、悲しみ苦しんでおり、悲しみ苦しんでいるのは私だと・・・通常常識ではそう実感されている。

しかし、そうだろうか?・・・

本当にそうなのだろうか・・?


恐怖を観察し、恐怖から逃げようとし、恐怖を実感しているのは恐怖それ自身なのではないか???!


行為を観察し、行為を為していると思われている私とは、行為が生み出している「行為の記憶の反応」なのではないか????!


実際は、私が恐怖しているのではなくて、恐怖が私を産みだしているのではないか?恐怖が私なのではないか?

実際は私が行為しているのではなく、起こっている行為が「行為していると思っている私」を産みだしているのではないか?

起こっている出来事が「出来事を起こしているとおもっている私」を生み出しているように、私とは起こっていることの結果なのではないか?


・・・・・内面の恐怖を観察している私の正体とは恐怖それ自身なのではないか

そしてまた「行為していると実感する私」とは行為が生み出しているのではないか?

その「起こっている錯覚である私」が「私」は悩み苦しんでいるというのである。


私が悩み苦しんでいるのではなくてその悲しみとその苦しみが私そのものなのではないか

実際には悩みと苦しみだけがあって、悩み苦しむ私とはおらず、その私とは虚構に他ならない・・といえようか。


そしてそれらは共に起こっている。 去来している。 これらは起こっていることの結果であるものであると。



この対象として観察されている自我とは、観察している自我のこと・・、

観察している自我が、自分自身を分離して観察対象として知覚している。

これと同じく、この対象として実感されている恐怖とは、この恐怖を観察している私という恐怖自身そのものなのではないか?

この恐怖を観察している私とはその恐怖が生み出している結果で有るものではないか?

実はこの二つのものは分離していないのではないか?


私が悲しみ苦しんでいるのではない・・本当は悲しみや苦しみだけが・・・ただただ起こっているのではないか?

それら無限である心というものが起こっているのではないか?去来する心が起こっているのではないだろうか?

その心こそが私なのではないか・・・・


それは丁度、肉体や脳のことを自分の肉体や自分の脳だと錯覚し、五感を自分の五感だと錯覚し、

知覚や認識を自分の知覚や認識だと錯覚しているように

生み出されて継続している記憶が、自らを分離し、自らを対象として知覚しているのではないか?

私・自我・自分とはその起こっていることそのものであるのに・・


自我の動きを観察し、自我の欲望や、自我の宿業を見て自我を非難しているのは果たして誰なのか?


それはその観察されている、欲望、願望、暴力、利欲心、増上慢、そして戦い、常に一番になろうとしているそれ自身ではないか?

自我が自我を非難して、自我が自我を改善しようとして足掻き、自我が自我から逃避しようとしているのではないか?

自我を見て知覚し認識しているのは自我自身なのではないか?

それゆえ自我とは、起こっていることの結果である心それ自体と言えようか?


恐怖を見て恐怖から逃げようとしているのは恐怖であり、

自我という記憶の反応であるところのこの私を見て私を非難しているのはその私という記憶の反応なのではないか?


この恐怖も、この記憶の反応も、起こっている事柄なのではないか?

生命は起こり、誕生も死亡も起こり、健康や病気も起こり、出来事も起こっている

呼吸も、心臓の鼓動も、運動も、消化も、排泄も、舌の動きも、視神経も、視覚も、そして知覚も、認識も、統覚もおこり

複雑極まる行為も起こっている。そしてそれを自分が行為しているという錯覚も、意志も、選択も起こっている

そして複雑な課程の結果である記憶そのものであるところの私という主体を実感している虚構も起こっている。

起こっている生命や、その意識を生み出している頭脳や身体を自分のものであり、自分が為しているとの思い込みが起こっている。

その思い込みも起こっていることの結果であり、この私自身こそその起こっていることである・・・。


そのそのように思い込んでいる主体である私こそ起こっていることの結果ではないのか?

起こっている結果であるものが、その起こっている結果を観察し、逃避したり、分析したりしている。

私とはその起こっている結果に他ならないのではないか?

この私とは起こっている虚構であり、わたしとはそれらを起こしている大叡智・大自然のものに他ならない。



この次元を超え、主体と客体の分離を超え、時間と空間を超えた「大叡智」がマインドと各時空間と各次元を創造し

マインドは各次元の脳と各次元の全ての身体を創造し

その脳と身体は意識と行為と思考感情を生み

その意識と行為と思考感情が記憶を生み

この循環システムから生じた「記憶の反応」がこういうのだ

わたしは生きている、私は意識だと

私は私だ、私の記憶だ、私が行為している、私の人生だ、私の内面だ、私の心だ、私の肉体だ、私のカルマだと・・・

そして

私は選ばれている、私は一流だ、私は体験した、私は到達した、私は人々を救わなければならない・・・と・・いうのである


これこそまさしく主客転倒に他ならない。

私は実在ではないのに・・・・



・・・と、このような思考が去来している昨今である