戻る














私とは錯覚



私が錯覚しているのではなくて、私とは錯覚なのではないか

しかもその私という錯覚は脳の中枢部から起こっているので非常に実感するのが難しい。


私が見ているのではない、見る事が起こっているのではないか

見ることは眼球を始め視神経やその画像に意味合いを与える統覚機能が正常に働いているので見る事が成り立っている

その視神経も網膜も眼球も統覚機能も決して私が生み出したものではない。

従って、私が見ているのではなくて見る事が起こっているのである。



私が生きているのでは決してない、生命が起こり、そして働き、意識が発生しているのであって、

その生きていることが私が生きているという錯覚を生み出しているのであり、事実は決して私が生きているのではない

生命がここに起こっているのである。



私が考えているのではない、考えが起こっているのだ、条件付けに従って思考が起こっているのだ。

記憶の反応や、外部からの刺激への反応、そして脳の反応、それら思考の去来が起こっているのであって、その記憶や思考が

私自身という錯覚なのではないか、私という実体は存在していないのではないか。



私が錯覚しているのではない、起こっている錯覚そのものが私なのではないか・・・私とはシステムによって発生している錯覚なのだ



この私とは、システム上発生している錯覚それ自身なのであり

実際に見ている私自身はいない、見ることが起こっており、行為は起こっており、出来事は起こっている。

これらの知覚を統覚している機能をシステムが生み出して私と言う錯覚を生じているのではないか?



私のものはなにも無い、全ては根源によって創造されており、根源のものであり、根源である。

この所有という概念そのものが私と言う錯覚から、二次的に発生している強固な観念であり

従って

この私とはシステムから生じている錯覚で有り、諸体の記憶の反応なのであると思える。

この錯覚は強固でこの世界を覆い尽くしている常識を支えている根本概念ではあるが・・しかしそれは錯覚である。


この錯覚は自分が見ている対象を自分と異なっていると実感しており、

実際は自分とは起こっている記憶の反応であり、この記憶が対象と見えているものとは、

記憶である自分という錯覚が起こしている知覚認識の誤りにすぎないことを理解しない。

対象認識そのものが錯覚が生み出している錯誤の知覚といえようか。


この記憶が起こしている知覚認識とは、自分と対象とを分離してしまうことであり、

それは即ち私とあなた、私と世界、私と宇宙、自己と他者の分離を生み出し意識することである。


この錯覚によって観察されているもの、即ち対象とは、観察している錯覚自身であり、真実の未知なる目を覆うベールである。

自分とはその錯覚よって見られている観察対象それ自身であるにもかかわらず、それを分離して見ているということであろうか


しかしここで混同してはいけないことは「ものそれ自身」「あるがままそれ自身」はこの錯覚である観察者ではなく、その知覚でも無い。

その錯覚が見ている観察対象ではないので、この錯覚である観察者にとっては「あるがまま」とは未知なるものある云うことではないか


この錯覚によっては「あるがまま」は知られず、知覚されない認識されない

この錯覚によっては意識や無意識を生み出している絶対主体は認知されない

この錯覚が知るものは「あるがまま」ではなくて、あるがままを歪曲している錯覚自体であるからであり

それは錯覚が対象として知覚し、認識しているものであり、錯覚の対象とは錯覚の内容それ自身に他ならないのではないか?