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建前と本音





世間ではよく建前と本音という言い方がされ「本音で話して下さい」「本音を話して下さい」などと言われることがある。

では本音を話しているのは誰で、誰が本音を語り、なにが本音であるのだろうか?


本当のことを言えば、その「本音の私」とは自分の目の前に現れているあなたであり

その私の本音とは目の前のあなたという「他人の心」であることだろう。


現在意識の私が考えている「私の本音」とは、決して「私の本音」ではなくて、脳の反応という現在意識なのだ。

そしてその記憶の反応の実際の姿(内実)こそが・・・(他者の知覚という形式で)

目の前に現れているその他人であり「私の本音」なのだ。

記憶の反応という「現在意識の私」が考えている「私の本音」とは、建前と同じように記憶が作り上げた「自己イメージ」であり

そして、その現在意識の自分が考えている自分の本音とは決して本音ではない。

何故、本音は(自己・自我の姿は)記憶の反応には知覚されないのか・・それはその知覚そのものが限定されているからだ。


自己の本音とは他者という鏡、並びに諸々との関係を通じてのみ開示されるからだ。



では私の本音、自己とは一体何か?

自己とは競争心であり、欲望であり、恐怖であり、利己心であり、自己の安定と安心を(他己のではない)求め、愛が無い自己である。

自己実現しよう、神に至ろう、常に何かに到達しよう、成し遂げようとし、そのための方法を実践し、自分はどのくらい進歩したかを気にしている。

そして脳の中で体験し経験している・・実際は脳から出ていないというのに・・

自分が他人にどう思われているのかを気にし、その自分のことを見ている他人の事は無視し、自分のことばかり考える「私という観念」が本音である。

(高い意味合いで)自己を忘却することもなく、自己関心そのものである私という観念が本音である。


従って、現在意識の私とは、決して他人に出会うことはなく、従って本音の私にも出会うこともない。

現在意識の私とは、その現在意識自体である本音の私(私という観念)に出会うことはない、鏡の理解を通じて以外には。

自分の目の前の他人という鏡を通じて以外には本音の私に出会えない。

本音と建前が分かっていると思っている人達は、自我である自分に出合うこともなく、従って他者に出合うこともない。

本音と建前を使い分け、建前であり本音である自我にすら出合うこともない。



その本音の私とは

それは記憶の反応であり、条件付けられた脳と思考のシステムが生み出した結果(現在意識)で有るものであることだろう。

本音の私とは人類共通の自我=私という観念であることだろう

未知なる「内奥の意識」は、現在の条件付けられている脳では今のところは顕在意識化されない。

従ってこの条件付けられている脳(物質の脳に絡んでいる脳も含め)においては現在意識には常に記憶の反応が意識され

やってきているもの、起こっている実際のことは意識化されない、あるがままは現在意識化されない。

多分、脳内中枢の私という観念から投影されているマインドがそれ自身を私と意識しているのだろう。


私達が知覚している現実の知覚とは条件付けられている脳の記憶の反応であり、そして実際の現実の知覚は歪曲されるからだ。

ただ世界中の人類の脳が同じ段階なので、あるがままは知覚されず、あるがままだと思われるところの脳内の仮想現実が現実と見なされている。


それなのにそれを世界中で起こっている現実と捉えているものとは

それは世界の万人の共通した「私という観念」であり・・・それは諸体の脳のシステムによって生じている人類共通の自我であり

他人と全く同じなのに「私は他人とは異なっている」と思っている「私という観念」であるものだ。


シャンカラが言うところの私という観念の主体といわれる統覚機能であるものだ。それは神聖なるマーヤであるものかもしれない。