人の心とは自分を映している鏡だ
人の心とは自分の姿を現している
自分が見ている他人の心とは私自身の心のことなのだ
他者とは私自身なのだ
そして私とはマインド・思考に他ならない
「立ち向かう人の心は鏡なり、己が姿をうつしてや見ん」
という金言があります
人の心という鏡に映っている(知覚されている又は認識されている)
その私の前の他者の姿とはこの自分自身なのです・・・と言われる
Kもまた関係性を通じて自己認識が可能となる・・と言われる
もしこの知覚のからくりを照見されることが起こったならば、自他の分離が消失していることだろうと
他人とは私であり、己であり、己の姿が他人として映っているのに(他者として間違って知覚されているのに)
それを私の姿とは思わずに他人の心だと知覚し錯覚しているのはマインドだ、この私だ。
目の前の意地悪で、どうしようもない性悪の他人とはこの私自身なのだ。
私に襲いかかる強盗は私自身なのだ、私を憎悪するあなたとはこの私の事だ。
内奥の他人自身であり、私自身であるものは未知である鏡であり、鏡それ自体は知覚や認識の対象にはならない。
知覚それ自体が錯覚の上に成立しているからだ・・・自己や他者という錯覚がこの限定された知覚である。
知覚や認識の対象となっているのは他人という私自身なのであると言われる。
そのテロリストは私なのだ、その愛想の良い商売人は私なのだ。
他人という私を通じて、私自身が暴露される。
私はその殺人者であり、その殺される被害者である。
私はその幼い子どもであり、腰の曲がった老人なのである。
私は、神を利用して悟りを得ようと虎視眈々と狙っている行者であり、遊びほけっている若者でもある。
自己と他者という主体と客体の分離の知覚が錯覚であり、この錯覚が私なのだ。
他人という鏡を通じて、己の実像が徐々そして段々と暴露されていく。
関係性という鏡を通じ、又、知覚の鏡、認識という鏡を通じてそこに現れている目の前のあなたこそが私の実像だ。
自分とはこんなに敬虔だ、または私はこんなに優れていると思う自尊心を暴くのはこの鏡を通じてに他ならない。
私という恐怖を、なろうとしている欲望という私を、暴露するのは立ち向かっている他者の心に他ならない。
そして他者とは己に他ならない。マインドに他ならない。
この鏡という関係性を通じて、自己を改善し自己実現し、自己達成しようとする自我は必ず関係性の中で発見されことだろう
と