する事は何もない
する事は何もない
する事はする人と共に起こっていると
全てすることは為されるからであると
する事とは為されている事だからだと、起こっていることだからだと
その事をする私も、その出来事やする事とは共に起こっているからだと
誰も何もしていないのだと。
する事は何もなく、誰も何もしていない。
ゆえに、する事とはその事をする人と共に起こっていると、全ては起こっているのだ。
何もする事は無く、誰も何もしていないのだと。
何故なら
全てのする事は、全ての起こる事と共に、何事も起こり、同時にその事をしてる私も起こっているからだと
思いも、歓喜も、感動も、愛も、憎しみも、嫉妬も、計画も、失敗も、成功も
生まれることも、死ぬことも、出会いも、そして別れも起きている事柄である。
逆に言えば
起こっていることは、自分が起こしていると思っている私・・即ち起こっている私と共に
自分がする事は、その事をする(為す)私と同様に共に起こっているので
即ち
誰も何もしていない・・
わたしはいない・・誰もいない・・・
この私とあなたとは起こっているということに・・なるのではないか
私は何もしておらず、私は何もしていない。する事と共に”する私”、”している私”も起こっているからだと
というのも
極論からすると
為している私、その行為、為していると思っている私、
考えている私、その思考、私が考えていると思っている私
生きている私、私が生きていると思っている私
生まれ死ぬ私、私が生まれ死ぬと思っている私
自分が継続していると思っている私
そのあなたも私も、何かを為す私も、何かを為していると思っているその私も、起こっている・・いうことになる
誰も何もしていない。私もいない、あなたもいない誰もいない
起こっている・・
私はあなた同様起こっているのだ・・・
起こっていることと共に、起こしていると思っている私もあなたも起こっているからだ・・と
そしてその記憶だけが継続している