この目は正しく見ているか
この不安にまみれ、恐怖におののく私を私ではないと思って自己観察している私とは誰か?
自我の反応を私ではないと思い、自我を対象として自己観察している私とはだれなのか?
その自己観察している私の事を上位の自己とか真の私と言うことは出来ない。
何故ならその知覚は自我そのものであり、知覚主体も自我である記憶・私だからだ。
自我が「自身を観察している上位の自己」と、「観察される低位の自我」に分けているだけだ。
自我を観察している私とは誰か?
それは観察されている当の自我そのものなのではないか?
真の私である未知なる意識には自己や他己の区別も分離もないと言われている。
故にその自我を観察し、自我をなんとしようとしている私こそ
自我を改善し、瞑想し、修行し、自己を良くしようとしている私も
その対象として観察され、知覚されている自我なのではないか?
自我が自らを対象として分離し、対象である私をあたかも、自分ではないと思って観察している。
実は観察主体こそ観察されているものによって生じている。
観察している私は観察されている私なのではないか?
観察者もその観察者によって観察されている自我も同一の自我である。
悩み苦しんでいる私を観察している私こそ、その悩み苦しみなのではないか?
嫉妬心に焼き焦がれる私を冷静に観察している私とは、その嫉妬心に他ならない。私は嫉妬なのだ。
欲望する私を観察する私こそ、その欲望自体なのではないか?私が欲望なのだ。
非難している相手とは、非難している私自身なのではないか?非難する相手は私なのだ。
恐怖の私を見ているのは、その見られている恐怖自身に他ならない。わたしは恐怖なのだ。
自我を観察している私こそ、その観察されている自我なのではないか?
自我こそ自己である自我を観察している本人だ。私とは自我であり、記憶の反応なのだ。
自我が自身である自我を観察対象として分離して自己又は他己として知覚している。
自我は自身から逃れるために自身を分離して観察者・主体を生み出している。
観察者は観察されている私であり、観察される他己である。
これが狡猾な自我のずる賢い奸智だ。
恐怖と、不安と、怒りと、羨望と、嫉妬に狂っている私を観察している私。
その観察している私こそ、その観察されている私ではないか。
その観察者である私こそ、私を正しく見ていないものではないか。
・・・と思考している。