思考の働き
以下の文章はKの「自我の終焉」を読了し
続いて沸き起こった感想です
現在の私・自我のレベル(思考と感情のレベル)からすると「彼岸であるK」とは果てしない深淵が横たわっております
下記の文章は現在の私・現在のパーソナリティー(サイコノエティック体)としての私とはかけ離れている頭だけの感想に過ぎないことを始めに断っておきます。
思考の働きとその記憶の働きのうち最も大きい作用とは何だろうか?
思考や記憶には「見る」ということはその範疇になく、
思考や感情は結果として起こっており
またその記憶とは反応することしかしていないのに、それらが「私は見ている」と錯覚することだろうか?
私が見ている、私が考えている、私は恐れている、私は苦しんでいる、私は行為している、私は知覚している、私は感じている等々の実感
そしてまた、私、考えている私・思考者、行為している私・行為者、見ている私・観察者、知覚者、経験者、記憶者という更なる実感、
これら思考の実感がある限りは
すなわち私、個人、他人と異なっている私、他と分離している私という実感が残存している限りは
(※サイコノエティック体が本来のサイコ・ノエティック体に再形成されていない限りは)
私には「私は見ていると思い込むこと」しかできない。私は実際には見ていない、思考が私だからだ。
脳の機能である視覚・知覚を、それを統覚している私という観念・記憶は自分の視覚、自分の知覚だと錯覚しており、
絶えず起こっている思考と感情を私の思考と感情だと思っているのも
その絶えず沸き起こる思考や感情そのものが私という実感を伴っているからである。
また、自分とは条件付けられている思考の記憶であり、その条件付けられているようにしか反応していないのに
思考の記憶はその条件反応のことを「私は見ている」と思い込んでいる。この考えは私独自のオリジナリティーだと??
だが条件付けられている記憶の反応には見ることはあり得ない。
その条件反応では「見ること」はない。記憶には真の「見ること」はありえない。と、
「見ること」とは思考の働きではないからだと言われている。
「見ること」への考察や思索さえも「見ていない又は見ることの出来ない思考」の働き・条件反応であり、
どうあがいても考察や思索という思考の延長には決して「見ること」はない。
・・・「私が見ている」という「私」の実感が残っているからだ・・
即ち思考が働いているからだ
他と分離している私という実感が残存している限りは見ることは起こっていないと。
思考が有る限りは「恐怖が私である」「観察者は観察されるものである」という「気づき」や「見ること」は起こらないということだろうか。
クリシュナムルティーの本を読んでこの「観察者は観察されるものである」を考察すること自体が、観察者の働きであり、思考の運動ではないか。
それは、「観察者は観察されるものである」の理解から離れて行くことだ、考察は理解への道ではない。直知の道ではない。
けれどもこれらの事柄の探求は「観察者は観察されるものである」ということの頭による考察から始まってくるので
始めの初期段階としては、まず「観察者」という思考(自我)が確立されないとこのステップを歩み出すことすら不可能である。
成熟した自我でないと考察することすら始まらないと言われる所以である。
この「恐怖は私」「自他は異ならず」「観察者は観察されるもの」という気づきや見ることとは思考や記憶の領域にはない。
この「恐怖は私」「自他は異ならず」「観察者は観察されるもの」と言うことが言葉や思考ではなくて、実感であることが起こったとき
はじめて「見ること」があるといわれている。・・「見ること」が起こったのだ。・・「虚偽を虚偽と見ること」が起こったのだ。
それはこの個体の諸脳が次元を超えた意識と繋がったのだ。条件付けがはづれたのだ。これは超絶に大変なことだ。
それ故に、クリシュナムルティーの本を熟読してそれを信仰化したり、体系化したり、模倣してなりきったとしても、
その「観察者は観察されるものである」が歯痛のように実際の実感として起こらない限り
それは、いまだ思考の領域であるのにすぎない。
それは単なる頭による理解であり、思考である限りは気づきは理解できないのであり、その理解とは即ち誤解である。
思考には思考を超えている「見ること」「理解すること」はないからである。理解の次元と思考の次元では全く次元が異なっているからなのではないか?
果たして私達、通常の人類にその様な実感が起こる可能性があるのだろうか?
勿論ある、
有るからしてKは彼岸から話し続けたのである。
「思考なく見ること」「心なく見ること」「私なく見ること」これは人類の可能性である。
「観察者は観察されるものである」「見る者は見られるものである」と、そのことを思考し思索し続けることは出来よう、
しかし私達人類にとっての実感とは分離している私であり、私が考えている、私が行為しているであり
けっして「思考者は思考である」「恐怖は私である」「見ているものは見られているものである」ではない。気づきが誕生していないからである。
このKの言葉それ自体がちんぷんかんぷんで何を言っているのか一向に分からないのが思考である私達だ。
これらのKの言葉は思考の領域ではない「次元を超えている彼岸」から発せられているからだ。
にもかかわらずこの言葉を此岸に引きづりおろし、傲慢になり分かったつもりになっているのがKの信奉者である私だ。
私のように無理に思考を重ねて頭だけで誤解するのが関の山であろう。
けれども
思考が「思考と一体化しない」ことや、思考が「思考なく見ること」や、私が「私なく見ること」とは
私にとってまた思考にとっては出来ないにも関わらず、
それにも関わらず、思考が思考の領域ではないところの「思考なく見よう」とすることが思考には必要だ!!
思考なく見ようとすることが思考の領域に起こる事自体が既に変革の始まりなのかもしれない。
不可能なものが不可能なことに挑戦するとき可能性が誕生するのかもしれない
そして、その誕生した本来すでにあった「見ること」の中には分離はなく「愛」だけがあると言われている。