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生の全体性



生とは全体性なのではないか、部分であるものは何一つもなく、すべては全体として生きている。

全体と部分は分かれていない、全体とは部分である。すべては全体であるのではないか。

全体と部分を分けている見方をするのは思考であり、その思考の記憶だ。私だ。

私という思考が、私は個人であり肉体は私のもの、私は他人とは別だと統覚している。

この無明が統覚機能から起こっている様にも思える。

人生を見ても、地球を見ても、その見方はいろいろとあるが、心・思考が見ている限りは分離している。

私という中心点からの観点である限り、それは分離しているように見えている。私とあなたは別だと・・

けれども、その観点は正しいのか?それは間違っているように見える。生は全体なのではないか?


この物質世界という現象界といえども、創造の一部であり、全体を構成している全体性なのではないか?

この私たちも生の全体を構成している、不可欠の全体構成=全体性なのではないか?

生は全体としてあり、全体として生き機能しており、部分であるものは何もなく部分は、全体であると。

思考である私達からは世界はバラバラに分離しているように見えるし、世界中の誰もがそのように思っているが

・・果たして本当にそうなのであろうか

この自我さえも全体構成の必要不可欠の全体性として存在しているのではないか?

この世界は、実は、ばらばらではなくて全体として存在しており、あらゆるものはその全体なのではないか?


この久保栄治の諸体の段階では、それを実感することはないけれど、

また、もちろん久保栄治の知覚段階では、そのことは知覚できないけれども、

この思考の記憶である私も含めて、世界を分離しているように実感する条件付けられている脳も含めて

一つの細胞という超精密な人体の一部分のように、生の全体性を構成している。

否、逆に部分であるものは何もなく、すべては全体性であり

生とは全体性としてあって機能し存在しているのではないかと推測される。


一見すると各個人がいて、それぞれがそれぞれの人生をそれぞれの段階で歩んでいるように見えているけれども

果たしてそうなのであろうか?


個人は存在しているのだろうか?私は実在であるのか?

部分というようなものは存在しているのだろうか?

生の全体性だけがあるのではないのではないか?

生は全体性として在るのではないか?

世界は実際は全体性として存在しており、わたしたちはその全体性として、全体として存在しているのではないのか?

この自我も、自我の達成を求める競争心、自尊心、利欲心も含めて、全体として機能し、生きているのではないか?

思考や記憶や意識や実感は確かに世界は分離していることを実証しているけれど、

その分離を成立させているものこそが、実は、全体性であるように推測される




世界は、そして全生命は、すべての全個人は全体性であり、世界は全体として機能している。

世界は一つの全体性として生きている。

この私の呼吸も全体性が呼吸しているのだ・・

・・・とそのように推測される。(もちろん実感ではないが)