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私は思考だ




私の正体とは思考に他ならない


私とは思考なのだ

私の正体とは起こっている思考である
(記憶の反応である)

思考が発生するとき(若しくは諸体の脳で受信されるとき)同時に「私」が発生している。

そして「私が考えている」「私が行為している」「私は生きている」「私の考え」「私の身体」「私は私」との実感が発生する。

けれども、その「私だ」との実態は、思考が起こるとき(若しくは記憶の反応として発生しているとき)同時に私も発生していることだ。

思考が起こるとき「私が考えている」・・というように逆転して”私という実感”が発生しているのである。

これが神聖なるマーヤなのであろうか?


わ・た・し・・それを実感している私とは思考それ自体なのだ。

実感している私とは実在していない。ただ思考が起こっているだけだ。

思考が有る限り私というマーヤは続く。



私・自我の実感とは諸体の記憶の実感である。

私という実態は記憶であり、記憶が自我であり私という実感を生み出している。

その記憶は条件付けられているように反応している。記憶の反応はシステム通り起こっている。


ここで重要なのは”私の記憶”なのではなくて、脳のシステムによる記憶が有るだけで、私が記憶しているのではないということだ。

記憶自体が「私の実感」であり、その条件付けられている記憶と、その反応が起こっている。


わたしはいない。私とは存在しておらず、実相は思考が発生しているだけだ。思考とは私であるからだ。

思考が起こっており、それに対しての諸体の脳の記憶の反応が自動的にシステム通り生起しているのである。


複雑な諸体の脳のシステムよって記憶が「実体のない虚像の私」を支えているのである。

その発生している思考が「私が考えている」「私が思っている」と逆転して「私という実感」が発生している

それが私だ、思考が私なのだ。

私である思考とは、私だという記憶システムは根源のものだ。



行為している私、思考している私というその実感はその起こっている思考自体である。

私とは神聖なるマーヤである。神聖なる虚像である。

起こっている思考が(反応する記憶が)私を産みだしているわけだ。

行為している私、思考している私とは、実在ではない。神聖なるマーヤである。

思考だけが起こっており、行為だけが起こっていて、それが私という実感を生み出している。

本当には私とはいないのだ。行為が起こり、思考が起こっているだけだ。



思考が無いとき私も存在していない。

行為がないとき私は存在していない。

その時始めてKのいう「思考なくして見よ」と言われていることが

どういうことなのか理解されることになるのだろう

見ることが起こったとき私はいないと教えられているからだ。

思考なく見ようとする思考が残存している限り見ることはあり得ない。

通常の見ている、または観察しているとは記憶の反応に過ぎない。



このことを思考しているのは久保栄治ではなくて思考なのだ。

上記の思考が或る個体に起こっているだけである。

この久保栄治という個体(私の個体ではなくて、生み出されているある特定の個体という意味だが)の脳に

こういう思考が生じているのであり、私が考えているのではない。

万人に同じのこの記憶システムが作動して思考が反応しているのだ


私が考えているのではなくて、私に考えが起こっているのでもなくて

考えが起こっているので「私が考えていると言う神聖なる虚像」が起こっているのである。



・・・とふとおもう、この頃だ