対象化について
至高なるものは対象化されない。聖なるものは対象ではない。
聖なるものは対象ではないし、対象としてあるものは聖なるものではない。
対象化という事柄は常に主体と客体に分離しており、知覚や感覚も分離している。
それは記憶や思考の領域のことだ。
即ち「私という観念」の領域内のことであり
そこは私が残っており、それが悲しみと苦しみと恐怖である。
如何に着飾ってはいても、その内実は葛藤と不安でしかない。
思考と記憶は分離しており、自と他に分裂しており、従って未知なるものではない。
対象化されるものは神聖なるものではない。
対象及び対象化されるものは至高なるものではない。
対象として出現しているものは自と他に分裂しておりそれは聖なるものではない。
視覚や感覚や知覚の対象は外部と内部の分裂の結果であり
それは記憶と思考が生み出した「もの」に他ならない。
対象は聖なるものではないので、対象は未知なるものではない。
聖なること、未知なることは対象ではなく
対象と主体の分離が止んでいる状態のことであろう。
主体と客体の分離が止むことは起こる事柄であると云われているからだ。
それは「私は世界である」という言明によって、その状態(次元)が推測される。
それはこの「私という観念」の領域ではなくて、この領域の基底である事柄であるからだと思われる。
観察者と観察されるものの分離が残っている限りは、その出現したものは(その知覚の対象は)神聖なるものではない。
何故なら、神聖なるものとは観察者と観察されるもの、自と他の分離が無い状態のことであり
世界と私が分離していない状態のことであろうからだ。
他者の苦しみが即、自分の苦しみであるとき
他者の苦痛が即、自分の苦痛であるとき、
その分離が減少し始めているのかもしれない。
肉体を、行為や出来事を、感情や思考を、そしてその感情や思考に反応している記憶を、さらにそれらの観察者を
暖かく、静かに、全身全霊で以て
非難無く、同一化無く、分離無く、判断無く、思考なく凝視しているとき
その他者の苦しみが実感される事が起こるのかもしれない。