戻る












脳に起こっている質料




他と分離している私・自己意識とは脳に起こっている質料の意識であり、物質のことだ。

私という実感とは、その質料の記憶物質の実感のこと。


その私・自己意識とは実は物質(思考)であり、その質料・記憶の意識であるといえよう。

思考とは脳に起こっている(脳で受信している)結果であるものだと。

私とは脳(自然・全体の一部である)が生み出している傑作であるといえるのではないか。


私、個性、個人、才能、能力、信仰、経験、個人的記憶、思考、意識、行為、意志、出来事とは

指紋と同じく全体によって生じられているものであるといえようか

行為と選択は「私が為している」という実感(知覚・錯覚)を”起こしている全体”が行っていることがらだ。

それ故に、この錯覚も神聖なるものである。

全体という(自然という)神が演じている舞台なのである。




脳は全体に属し、自然のもの、全体のものだ。(人工も自然が生み出し、全体のものだ)

自然と同じく、自然に反し、自然でないものも自然という全体の中において、全体によって生じている。

全体であるものが”全体ではなく、分離した私、私の思考、私の行為、私の人生、私の脳だと”錯覚を生み出している

その錯覚という質料・物質も全体である脳よって生じている。

その錯覚している実態=個別の私とは全体の一部であり、全体を構成している。

その分離していると信じ込んでいるもの(私)は全体を構成している一部なのであろう



肉体の心臓の働きや呼吸や筋肉や神経組織や自律神経や体性神経を使った行為と同じく

この身体を私のもの私だと実感しているその私とは脳に起こっている物質・質料の意識の事である


それ故に

私・自己とは肉体が起こっているように・・私=思考/意識=質料は脳に起こっている結果である

賢者に拠ればそれは過去に属しているという

この自己意識は脳に生起し、脳で受信している結果で有るものであるといえる。


繰り返すと

脳に生起し、去来している物質が自己意識であり私の実態に他ならない

私は脳に起こっている記憶の反応なのだ。

「私のもの」「私は」「私が」という自己意識は脳に生起している物質であるといえよう

その物質が時間と空間の分離を生み出し、自と他に分離している自己と言う意識を生み出したのだ

それは思考と呼ばれ、私・自己と自らを実感しているが

脳に起こっている(又は脳という変換器で受信している)物質・質料の意識の事であり

自己とはその質料の意識に他ならない・・・と考えられる