私に自尊心が作れるか
私・自己・自尊心とはだれのものか?私やあなたのこころとは誰のものか?
心は私やあなたのものか?私やあなたに心が作れるのか?私やあなたに私が作れるのか?
この自己・自尊心は私のものであるのか?そもそも私・自己とは私が作ったものなのであろうか?
意識とは私のものなのか?意識は私だ、意識とは私のものだと錯覚している意識が生じているのではないか
この私とは木や石と同じくここに現象しているものなのではないか。
根源が私と言う自己感覚・自己意識をお造りになって、根源が自己として生きておられるのではないか?
私が誕生したのか?いったい私に誕生を起こせるのであろうか?
私が誕生したのではなくて、誕生が起こっているのである。そしてこの自己感覚が生じている。
私が私という意識を創り出したのではなく、私という意識が生じているのである。
脳が生み出され、脳が維持され、脳が死滅するように、
各次元の私という自己意識も知覚も認識も記憶も、そしてその記憶の反応も創造されて維持され作動されている。
そして
その結果として私が生きている、私が生まれた、私は死んだ、私が考えている、私は愛している、私は苦しんでいる
という虚偽の実感が地球人類を覆い尽くしている。
実際には精子も卵子も私が作ったのでもなく、私のものではない。意識も私のものではなく、この私も私のものではない。
私・意識・・それは起こっているのである。それは生の現象の一部なのであり、起こっている現象である。
輪廻転生している私という実感は、記憶体の継続の実感であり、その記憶体も私のものではない
生死が起こり、私が起こっているように・・それらは
この生の現象をかくの如くにあらしめている根源が私として生きておられるようにも思える。
肉体や頭脳や、五感や、知覚や記憶が私のものではないように
この私という自己感覚を維持し継続している諸体も記憶体も勿論私のものではない。
カルマは私のものではない。カルマは根源のものである。
この私という分離している自己感覚を有する頭脳と記憶と諸体を使って源泉が生きておられるのである。
私が夢を見たのではない、夢が生じているのである。そして夢の中での私を生かせておられるのである。
私にどうして眠ったり、起きたり、熟睡したり、苦しんだり、愛したりすることが出来ようか。
私にどうして消化したり、排泄したり、喜んだり、欲したり、絶望したり、エゴイストになったりすることが出来るのだろうか
私にどうしてこの私自身という分離した個人を生滅することが出来るのだろうか
心・思考・自己感覚そして私・・・これこそ根源がお使いになって現象界を生きておられる道具なのではないか
私とは源泉の現象なのだ。私とは根源のお使いになっている道具又は映像の一部なのだ。
私とあなたは起こっている事柄、現象なのだ
・・との思考が起こっている。
・・・だが、これは気づきではない、単なる思考だ。いまだ内側が閉ざされているからだ。
心臓の結束は解かれていない。この個体に気づきは生じていない。
だがこの個体の内側とは私の内部ではない。根源が使っている何億兆とあるうちの、ある個体の内側のこと
すなわちそれこそが根源の内側の一部だ
私という実感、分離している自己、この私とは源泉が使用している錯覚だ。