死んだらどうなるのか
死んだらどうなるのか?
死んだらどうなるのか?と思っている私とは、自分のことを個人だ、肉体だと固く信じ
自分は死ぬと思っているこの私の事、それは思考と感情が継続しているこの記憶体のことだ。
自分は肉体だと思っている私だからこそ、死んだら私はどうなるのかという疑問が湧くからだ。
個別的霊魂であるなら生死を見ているからその様な質問は起こらない。
質問するその私とは自分が「自分の人生を生き、自分が行為している」と実感しているこの個別の名前を持つ私のことだ。
この私は、この私が生きている間に「自己が死ぬ」こともなく、そして幽体の新しい目が誕生することもなかったので
死後行くところは、「自分のことを肉体だと思っている多くの個人」がいる七つの中有階層とその亜階層に行くことだろう。
けれども、そこは幽界ではないし勿論霊界ではない、私達には幽体や霊体がまだ形成されていないのだから幽界には行けない。
肉体の死の前に自己の死を迎えていなかったので(肉体のことではない)幽体や霊体が再形成されていないからだ。
私達は肉体が生きている間に幽体や霊体が再形成されていればその再形成された身体で以て幽界や霊界に行くことだろう
しかし残念ながら
生きている間に夢の中で夢に気がつくことすら起こらなかったので、私達が肉体の死後行くところは幽界ではなくて
「自分はまだ死んでいない!」「生きているのだ!」と思っているところの、中有界という人類の無意識亜界層であり
私達はそこで、この人生の継続を味わい、その亜階層での臨終(眠り)がやってくるまで更なる夢を味わうことだろう。
・・・・けっして目覚めることなく・・・。
Kの言う自己観察とは、この夢の中で「これは夢と自覚すること」以上のことがらであり
その自己観察している目とは、もっとも高度の「熟睡の中で熟睡を観察している」ところの全く次元の異なる目のことである。
それはこの肉体の目のことや、死後継続する記憶の目のことでもなく、さらに幽体や霊体の目のことでもない。
その自己観察の目とはそれ以上の非分離の目のことだからだ。
それは「私は世界である」と実感している非分離の目のことだ。
この夢の中で目覚める以上の、「熟睡そのものを見ている目」が覚醒していない限りは自己観察をすることは不可能であろう。
しかし私達には可能性が有るのだ。自己観察の可能性が有るのだ。それは肉体の脳に影響をあたえ脳を変換してしまうことだろう。
それは死ぬことが起こる可能性のことである。
ここでいう死とはもちろん其れは肉体の死ではない。
肉体の死であるなら自殺で其れは可能だが、その死とは、肉体の死ではなくて、私自身の死のことであり、本物の死のことである。
肉体の死とは死ではなく自我が継続してしまうのでそれは死とはいえない。しかし私達にはこの死の可能性が残っているのだ。
自己の死・・其れこそが恩寵であることだろう。
死がなければ新たに生まれることはないからだ。肉体の死は決して死とはいえない、それは死では全くない。
死がないので、この私・自己が継続してしまうのだ・・輪廻転生という夢の中で生まれ死ぬことが継続してしまうのである。
私達はこの人生で死ぬことがなかったので生まれることもなく、そして幽界に行くことすらなく
中有亜界層とこの物質界の間で”回る籠の中をハツカネズミが走り続けるように”輪廻転生を続けているのだ。
いずれにせよ生きている間に死ぬことのなかった私達は死後の世界もこの世界と同じように継続していることだろう。
肉体を私自身だと信じ実感している記憶体は継続して夢の中で生き続けることだろう。
・・・しかしそこは、高次現象界の実在界ではない。霊界でもない、幽界ですらない目覚めることのない天国又は地獄なのだ。
生きている間に夢を夢として、夢の中で覚醒することがなかった私に、どうしてアストラル界へいけるのだろうか?
目覚めることがなかった私達が行くところは、人類の集合的夢の亜界亜層であり、そこには自分は肉体だと思っている自己自我
多くの個別の意識が継続しているが、その意識である記憶は、やがてその亜界で更に眠りに落ち、内なる高次の記憶体へと収納されて、
次の転生を迎えることになるだろう。
だが、その生死の中を常に個別的霊魂が一緒にいることだろう。未知なる高次の意識が常に共にいることだろう。
私達は決して目が覚めることなく生まれ、生き、そして死ぬ・・・これが私達、肉体を自分だと実感している個人の生き様である。
「自分が行為していると実感している」肉体と同一化しているこの私自身の有り様である。
(脳と結ばれているからである)
私自身(サイコ・ノエティック体)は肉体の死の後に行くこの中有界という亜界で、ここで更なる転生に際して眠りに落ち、
一旦コーザル体に収納され、そして個別的霊魂と共に母親のお腹から「オギャー」
と言って夢の中に生まれてくるのである。
この私達こそ未形成のサイコ・ノエティック体、私達である自己・自我なのだ。
この自我こそ自分が行為していると実感しているものである。
この自我こそ起こっている事柄であると云われる。
思考を超えた意識から観照すれば、思考=自我は起こっているのである!
そして、ここで述べていることとは思考であり、思考の中には正誤の意見はあっても理解はないことだろう。
それ故に賢者達は間違っている思考にせよ、正しい思考にせよ、思考によっての輪廻については語らないのである。
思考や観念の中には理解はあり得ないからである。
というのも思考の中には選択(自由意志)があり、選択があるかぎり自由はないからであり
思考や観念(正誤に関わらず)が有る限り行為はあっても無為はないからだ
行為が思考や私という観念や記憶や情報を生み出しているのだ
即ち心の中には選択を伴った行為はあっても、真の意味での自由な行為はあり得ないからである
・・・と教えられている。