戻る









正しい思考はあり得るのか




正しい思考とはあり得るのだろうか?
思考は正しいのであろうか?

そもそも思考にとって正しく「在る」又は正しく「見る」ということなど出来るのであろうか?
条件付けられている脳には、条件付けが外されていない以上は
正しく見ると言うことは起こらないことだろう。

では正しい思考とは何だろうか?
それは思考とは正しくないということを思考していることだろうか?

けれどもその事を思考している状態も依然として思考であって
その「正しき思考はあり得ない」と思考している思考であるに過ぎない。
それは自我が自我を正しくなく観察していることを自覚している状態でもあるといえよう。
「あるがままをあるがままにみること」は思考には出来ない事を自覚している状態といえる。
自我には自我を見ることはないにも関わらず、思考という自己・自我は
自分は自分を観察できており、自分は自己観察していると錯覚している・・と、このことを思考している。

正見、正念とは「私、思考、自己意識、心自体が正しくない」ということ
「私は自分を見ていない」し「思考は思考を見る事はない」ということを思考・記憶が自覚すること。

思考、心、自己意識そのものが分離しており、正しく見ておらず、正しく見ることが出来ない。
即ち私・思考とは正しく見ていないし、正しく見ることはないことを見ることなのではないか?
それが「私・思考」が「私・思考」を見ている状態なのであろうか?
それは同じ思考でも高度の思考のことであろうか?
この高度の思考とは既に在り完成されているサイコノエティック体のことで在り
私達である形成途中のサイコ・ノエティック体のことではないと推測される。


しかし、その「見」とは、Kの言う「思考なくして見よ」「心なくして見よ」
というところのその思考なくして見ている「目」ではない。

この分離している「見」である輪廻転生している自己意識にとっては
私という実感があり、自分が行為しているという実感があり、この自他に分裂している意識である以上は
この自己意識は「見て」いない、即ち「見ること」がない。
私は正しく見ていない、即ち、この自己意識とはKの言う「心なく私なく見ている目」のことではない。
Kのいうその思考や心ではない「世界と分離していない目」とは未だ誕生していない。
脳が脳の条件付けを自覚していないからである
個体の脳が高次のサイコノエティック体と充分に繋がっていないからである・・と思われる。

この思考が「思考なくして見よう」とすることも、そして「見ること」の為に行法やワークを行うことも
何かに成ろう至ろうとすることこそ(時間と空間の概念である)思考・自我の最大の特徴だといえる。
このための方法を実践することが目的と理想と動機を持っている自我、「自己の拡大」という自我思考の特徴であり
その「自己改革」も裏を返せば「自己拡大」「自我成就」であり、思考・自我の運動そのものに他ならない。
従って正しい思考とは思考から離れること。自身が自身と同一化しないこと。
「何にもならない」、「どこにも行かない」、「何もしない」、「何も思わない」・・・となる。


このことは同じように
「行為は起こっている」
もしくは「私は行為していない」「誰も行為していない」「行為は起こっている」も
それは自他に分離していない純粋意識であるラマナ・マハリシ達の意識なのであり
私達が本を読んで感動し
この行為の結果、生じている思考である自己意識が、いくら「私は行為していない」と言ったところで
意識自体が異なっているので、そう鸚鵡返しのように言うこと自体が嘘をついていることだ。
私達の目とはラマナ・マハリシ達の意識とは全く異なっている条件付けられている記憶の目であり
其れは自他に分離している思考であり、その思考がさもその様に、純粋意識のように言うことは自己欺瞞であるといえる。

行為によって生じている分離し限定されている意識にとって、
即ち「私は行為していると実感している」輪廻している自己と言う意識にとっては
その様に言うこと自体が「嘘」であり、自己欺瞞でしかない。

それは「私は行為していない」と自覚(正覚)している純粋意識にとっては「私は行為している」が虚偽であるように
「私は行為している」と実感している自己意識・思考が「私は行為していない」と言ったりしていることが虚偽である。

其れはその自己と言う分離している意識にとっては
自他に分離していない純粋意識が「私は行為していない」と「見て」いても、
その目がこの個体に生じていない(又はその分離していない目と繋がっていない)限りは自己欺瞞であり、
思考が自らを欺いているに過ぎない。

その自己欺瞞と言うことこそが、思考であり心であり自己である本質であるように思われる。
この主体と客体に分裂している私という幻、幻影、虚偽、これこそ神聖なるマーヤなのではないか?
神聖なるマーヤの世界はカルマの世界であり、完全であり、完璧であり完結している。
この神聖なるマーヤこそが思考であり、心であり、私なのではないだろうか?

思考が思考を非難すること。
至ろうとすること。成就しようとすること。
思考が思考を超えたもののふりをして自らを欺くこと。
そのために何かをワークすること。
自己放棄や全託することを通じて至ろう成就しようとすること。
思考が思考を超えているそれを手に入れて、それになろうとすること。
思考が思考から逃避しようとすること。
思考が思考と同一化しようとすること。
それら思考を超えている意識を手にしようとすることこそ思考の働きである。
自身である思考を受け入れることも拒絶することも、行為と同一化している思考の働きだ。

同じように

自己を世界と分離して見て、内部と外部を分離して見ているのは私という思考であり
自己を他己と分離している自己と見て実感しているのは無明という自我である思考であり
私=自分自身を自我と見てそのように「分離した自己」を実感しているのは自我という思考である。
自己を自己と実感しているのは自己という思考であり
純粋意識であるならその分離している自己はないことだろう。

この自己がない意識は自己であるマインド・心を曇りなく正見していることだろう。
虚偽を虚偽と正見している「無為であるところの心」の沈黙と静寂の奥に可能性が開けていると思われる。
虚偽でないその未知なる純粋意識は虚偽を虚偽と正見してる目の奥にあると思われる。

自己を他己と分離していない「わたしはあなただ」と見ているのは純粋意識であり

自己を全てと一つであり何ものとも分離していないとみているのは真我という純粋意識だ。

その純粋意識が「主体は客体である」「私は世界である」と言明するのだ。心ではない。