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個人は機械か?




先日、友人から指摘を受けた。
久保さん、「貴方は異常だよ、いつも同じ事ばかりにループして」と

・・・確かに、異常かもしれない
しかし
私の興味とはパチンコや競馬や、料理や、政治ではなくて
思考者と行為者に興味があるのだ。

果たして思考しているものとは誰なのか?
考えている者は実在しているのか・それともその思考こそ思考者であるのか?
私の興味とは行為している者は誰か?と言うことだ。



私はいつもそのことを思っている訳だ
この私・個人・私自身とは私・個人のものなのであろうか?
そもそも私が行為しているのであろうか?、それとも行為とは起こっているのだろうか?
私が思考しているのであろうか?それとも思考が起こっているだけなのだろうか?
私のもの、私、私と言っているのは私なのか?それとも私とは起こっている事なのであろうか?・・思考として
自分が努力して悟ったり、達成したり、実現したりするのであろうか?
それとも
個人も、努力も、悟りも、達成も、実現も起こっていることなのではないか?
脳を変えようとし、脳・思考をコントロールする者も、脳が生み出しているのではないか?
脳を手術する者は脳によって起こっているのではないか?

肉体や、五感や、知覚や、認識や、そして私自身すらもが起こっていることであるように、思われる。
それらは投影され、起こっているのではないかと

ここから先は、脳の変革が起こっていないのでこの個体(久保栄治)には理解できない。
(脳の変革は意志あるものによって起こしてもそれは駄目である、それらによっては条件付けは解除されない)

自我も、そして自分自身この私・自我を見て非難し判断している私・自我も
聖賢の言われるように
起こっている現象なのではないか
同一のマインドの現象なのではないか



外部が起こっているように
内部も起こっているのではないか

現象とは外部だけではなくて内部も同様に起こされている。私も起こっている

出来事が起こっているように
努力や才能や、そしてその反対の努力しないことも、才能がないことも起こっている。

成功や失敗も起こっているのではないか
内部の思考や感情や記憶や五感や知覚が起こっているように
私自身も、この自我を観察する思考(自我)も起こっているのではないか



友人が指摘することは的を外れていると思われる。
私達は機械であり何かをすることも何かに至ることもないのだ

教えられているように”選択がある限り「自由」はなく”
自由意志と行為がある限り「無為」はない
観念がある限り、気づきはない・・と


誰もが何もしていない
勿論、私は何もしていない
何かを考えているその考えも、考えている私や貴方も、その考えと同様に起きている現象である
何かを考えている、何かを為していると実感する私もあなたも起こっている現象であると。

何かを為していると思っている私も、何もしていないと思っている私も起こっており

為すこともなく、為さないこともない。

何もすることもなく、何もしないこともない。


何も引くこともなく、何も足すこともない


個人、私、個別的霊魂には何もすることはなく
何もしていないのではないか

何故なら
個人、私、個別的霊魂も現象の全体の一部として
起こっているからなのではないか


・・・と、私はこの事を考えるのが好きなので思索している