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私とはあなただ



聖賢は「私とはあなたである」といっているが

今日はそのような高次の意識からではなく、ごく日常の私達である意識から「意識」のことを考察してみた。

即ちこの条件付けられている脳から生み出されている「私という観念」から
(私達にはそれしかないので)

私達自身である「通常の私の意識」を考察してみたい。


この私達の日常の意識とは、よく観察すれば、個体特有の記憶は各個体では異なっていても

基本的な意識構造は同じではないか?

私達の内面の意識ベース、これは全ての自己意識を持つ意識にとって異なってはいないのではないか。

人類の意識である自我というものは、実際には人類は同じものだと思われる。


自分は特別で他人とは異なっており、他人とは違うと、そのように全員が思っているに過ぎない。

が、実際にはこの意識は全ての地球人類にとって全く同一の意識ベースであると思われる。


即ち、「他人(神)を自分の為に利用する」こと、「自分関心」「他を自己と分離して見ていること」

「自分と他人を比較し」「他人を判断し、評価し」「自分を裁き」「もっともっと何かに成ろう」とし

「自己実現しよう」「自己に至ろう」」自己達成しよう」「悟ろう」「涅槃に至ろう」などとし

そこから派生する、あらゆる自他に対しての非難、批判、評価、区別などがその意識内容である。

其れが動機として隠れているが、同じ意識のベースであり、それは「私という観念」である。



この私達の意識のベースとその記憶の反応こそ、全ての人類にとって全く同様であり同一であり

全く同じその私という観念、その私という観念が全ての有機体で働いており、「私は貴方とは異なっている」

と実感し、同じ内実の意識が24時間働いている。



勿論、各個体に於いてはDNAが異なり、脳の条件や、その特性は異なっており記憶も異なっているけれども

その脳の条件付け、記憶を「知覚」している私という観念は全く同じひとつの意識体である。

地球人類の意識とは実は一つの意識体なのではないか?と思われる(高次の意味ではなくて)


それは、すべての人類で「私は貴方とは別だ」と思っているところの「私は貴方」である私という観念ではないか


ここでのこれは、聖賢の言う「私は貴方」という高次の意識からの直覚ではなくて、思考からの思索としてだが

全ての人類とは全く同一の意識体であり、「私は貴方だ」と結論づけられる。

私もあなたも同じ一つの自我なのではないかと


それこそが「私という観念」であり、この私や貴方の意識の実体

それは私であり、あなたであるものだ。

従って全ての人類とは、低次の意味でだが、私という観念そのものなのであり、一つであり

各個体の枠を超えて同じように働いており、実体としてそれは「私はあなた」であるものだ。



これは他人を利用し、神を利用して自己の願望をかなえようとし、この自己関心である意識とは全ての人類で全く同一なのだ。

全く同じ意識が、異なる身体、異なるDNA、異なる脳の状態、異なる記憶、異なる記憶の反応と自己同一化している。

その同一の意識が「私の身体だ」、「私の記憶だ」、「私は行為している」、「私は生きている」、「私は個人だ」・・といっている。


裁判員制度のように他人を裁いたり、評価したり、等級を付けたり、ランク付けして利用する、その意識こそ全く同一なのだ。


この人類で全く同一である私という観念、それが「私は私」と実感しているが、その実態は「私とは貴方」であるものだ。

惑星地球単位で一つの意識体のように思える。


この意識こそ悲しみであり、苦しみであり、恐怖であり、暴力であり、嫉妬であり、つかの間の快楽であり

自己と言う他と分離している実感を持っている「人類で一つの意識体」なのではないか。


この私という観念はすべての個体において全く同じように働き、全く同じであるにも拘わらず

肉体の感覚や衝動や行為と同一化して・・私は私だ、私の人生だ、他人は私ではないと固く信じている。

だが、私とは貴方だ。同じ意識体だからだ。



それは

特定の肉体や、個別のカルマや、特定の脳や行為と同一化しているからなのだから当然と言えば当然だが・・

しかし、その私とはあなたであり、「私とはあなた」にほかならない。



けれどもこの悲しみであり、苦しみであり、恐怖であり、自己関心でもある私という観念は全く世界中でおなじ一つのもの


それゆえ、ここでは聖賢の言う高次の意識からではなく、思考から

この私という観念を考察して、「私とは貴方に他ならない」

「私とはあなたである」「私とはこの私を含めて全ての他人」だと結論づけられる。



この記憶と、脳が生み出している心・意識とは自己意識であり、知覚の反応であるが

その知覚の内容とは、記憶と記憶の反応のことであり、知覚自体とは異なっている。

それぞれの個体の行為や個別の脳である才能、能力、特性は異なっていても、

その認識は全くすべてが同じ私という観念による認識である。


即ち「私とは貴方ではない」「私は他と分離している」であり、その記憶が増殖して生き続けている。

其れこそが「私とはあなた」である私という観念であることを証明している。


私達、人類のこの分離している意識とは、実際は分離していると思っている同じひとつの私という観念であり

その私という観念の実態は「私は貴方」であり、決して分離していないのだ。

他と分離しているという実感を持っている私という観念は実は分離していない。


この私という観念が実態として私は他人であるにも拘わらず

他人は私ではないと思い込んで、「他人を利用し」「神を利用し」「自己実現し」「自己関心」している。

だが実際にはすべての人類は同じ一つの意識に他ならない。同じ一つの根本無明ではないか。

その根本無明の持つ「私は私」は実際には「私はあなた」だ。自他の分離は錯覚といえようか。



このマインド、意識とは実際には「わたしとはあなた」であるにもかかわらず

「わたしとは貴方ではない」と肉体や行為と一体化し分離を実感している、

このマインドこそ

分離していないのに分離していると錯覚する惑星単位の私という観念なのではあるまいか。