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心の活元運動



身体の活元運動は難しいことだ、それは意図的な運動ではないからだ。

意図を持っているのに、その目的の達成の手段として「叡智?」に身を任すこととは自己撞着である。

それは意図や目的を持って身を任そうとしているものこそが決して身を任すことない自我であるからだ

だからその「叡智」とは叡智ではなくてその「意図のレベル」のものであり、それが対応していることだろう。

「類は類を呼ぶ」のであり、「立ち向かう人の心は鏡」だからである。


意図的な運動が終わって、身体本来の叡智と繋がるレベルにまで心が浄化されているとき

はじめて活元運動は自動的に起こるのであり

浄化されていない心が、ある意図や目的を持ってそれを行うとき其れは活元運動ではなく

身体を明け渡す危険な運動となる。



叡智は内部にあるのであり外部にはない。

その自我の投影でしかない外部と繋がっているのに「身体の叡智」に繋がったと

誤解してしまう。だから活元運動は難しい。



同じ事が心の内部にも言える。心の活元運動、意識の活元運動である。


心の基底である叡智に繋がろうとする意図や目的とは利己的なものである。

意図や目的や動機そのものが思考の働きであり、思考とは自我であり、そこにはその自我が居座っている。

何故叡智に繋がろうとするのだろうか?その繋がろうという願望を起こしているのは誰か、

そして何故繋がろうとする願望が起こっているのか?


それこそ自我の動きであり、自我が活発に動いている証拠なのではないのか?

自我が活動している限りは活元運動は始まらない。


それは、その私達である思考が起こしている利己的な自己拡大の動きであり、その自己拡大の動きが残っている限りは

心の活元運動は起こらないことだろう。


目的や動機を持って「全託」することは「全託」を否定している。目的や動機があること自体が全託ではない

それは決して全託ではないからだ

その疑似全託では身体の活元運動と同じく類は友を呼ぶことはあっても叡智とは繋がらない。


本当の活元運動、心の活元運動とは自我が終熄している状態のことではないか

それは「心が変革されること」が起こる状態のことに他ならない。意識の変革は内奥から起こる。

心の変革は外部からではなく、心自身の内奥からであり、心の準備が整ったときに自動的に

心の内奥からその変革は起こるのではないか?

それは真の活元運動と同じく

内側の内奥から望むことなしに起こってくる心の変革なのではないか。