この私は思考していない!?
この私は思考していない。”思考が私”だと教えられている。
そして、その思考も、その「思考である私」も起こっているものであるのだと。
思考をしている私とは,思考自体の実感そのものであり、この私とは思考そのものであるからだと。
私が考え、私が悩み、私が思っているのではなく、その思い、その思考が起こっているのであると。
・・この場合の私とは、「私という自我自己」のこと、すなわちこの朝に、目を覚ましたこの私の事であり・・。
・・夢の中で一喜一憂している私、体験や経験や行為を見て悲しんだり喜んだりしている私、即ち体験者、経験者・・
条件付けられているように反応する「思考の記憶」のこと。
すべての人類とは等しく”条件付けられている脳のプロセス”によって発生し続けている汎思考そのものであるのだろうか?
その思考とは私という自己感覚を持っており、「私が考えている」「私が思っている」「私が欲している」と思っている、この私のこと
起こっている思考が私であり、その思考の記憶が条件付けられているように反応を続けている。
自我即ち思考の記憶だ。
通常の毎日の生活ではこの「私という自己感覚」である記憶が継続して反応を起こし続けている。
経験し続けている。観察し続けている。
実は、この私とはこの起こっている思考の実感なのであって、
私として実感されているような個人・自己とは実際には存在していないのだと言われている。
自己自我とは神のマーヤであると。
朝、目を覚ましたのはこの思考の記憶であり、この思考の記憶の条件反応が始まったのである。
私が目を覚ましたと実感し、その様に思っているのはこの「思考の記憶」なのではないか
全人類とは等しく同じように条件付けられている”脳の意識”であり、全員が同じ仕組みの脳の反応のプロセスの結果なのでは?
それ故に実は”私個人という自己は存在していない”のかも。
私とはいない。私とは存在していない。私だと実感している思考が有るだけだと言われている。
この脳のプロセスによって発生し”継続している記憶・エレメンタル”が生き続けているのだと。
私というこの分離した実体感覚・自己感覚は条件付けられている脳から発生している意識であり、その記憶が反応しているのに過ぎないと。
私が考えているのではなく、考えが脳に起こっている。そしてその思考が私と言う実感をしている。
私・自己という分離した実体感覚は思考そのものから生じていると。
しかもその実体感覚とは虚偽であり、実際には分離した私は存在しておらず、生み出され続けているエレメンタル質料に過ぎないと。
考えや想念や感情とは脳に起こっており、その起こっている考えや感情や想念が更に記憶されて
その思考の記憶が反応している、私・自己として反応している。
行為を”自分が行為している”と実感し、思考を”自分が思考している”と一喜一憂するのは思考の記憶だと。
私が欲しているのではなくて、すべての人類の脳に等しくその欲することが条件付けられているように起こっているのだ。
このプロセスが全ての人類の個体に全くの狂いもなく確実に発生し、
私・個人・自己・自我という「偽りの私」の実感を生み出し続けエレメンタルが蓄積され続けている。
「我思う故に我あり」ではなくて「思い起こるが故に我という錯覚ありき」である。
私が思っているのではない、私が思考しているのではない、私が感じているのではない
その思いも、知覚も、感情も、感じる事も、諸感覚もそして自己・自我も起こっていることなのではないか?
行為していると思っている私も、思考していると思っている私も、体験や経験や思考を観察している私も
・・この夢を見て汗をかき、日中の出来事で心配し喜怒哀楽を続けている私とは誰なのか?
この体験者、経験者、思考者、そしてこのユニークな自我とは神の自作自演、神の創作物なのであろうか?
私もあなたも神の演技なのであろうか?
全人類は全員が等しく条件付けられている脳に全く同じように同じ思考が起こり、そしてその反応が起こっているのである。
世界人類は共通の同じに条件付けられている脳のプロセスによって同じような思考が発生し、
同じようなその記憶の条件反応が起こっているのである。
しかし、ここで間違ってはいけないことがある
それは神の創作とは指紋が一人として同じでないように、この本来の個性や本質は一人一人異なっている。
けれどもそれは”私という観念である思考”=自我の個性なのではない・・・其れは全く個性ではなくて分離している自我の醜さだ。
神聖なる個性と本質、それは神自身の一側面。
それは”自分のものだと勘違いしている自我”のものではない。
チャクラやクンダリーニを自分のものだとして弄ぶ自我は、神聖なるサイコノエティック体を自分のものだと勘違いしている。
芸術に於いても神聖なる真の個性や本質からの表現と、思考による私・自我の表現とは全く異なっていると思われる。
其れが客観芸術と主観芸術の相違でもある。
この思考の私・自我が滅却したとき、そこに真の神としての個人の本質が顕れるのではないだろうか。