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三種の神器


昨日テレビで三種の神器のことが放送されていたが、私なりに其れを推測してみた。

三種の神器それはまさしく神の器に他ならない。

ではこの三種の神器、即ち勾玉、鏡、剣とはどこにあるのであろうか?

これら三種の神器、それらはこの次元の物質ではない。高次の次元にある。私達の中に在る。

それは勿論、私達サイコノエティック体(形成途中のものではなく形成されている「完成されたサイコノエティック体」のこと)に既に実在しているという。

三種の神器とは根源が管理し、根源が直接に具現化する神聖なる接点でもあり、私達自我にとっては畏れ多い内部の場所でもある。


勾玉とは心臓のハートセンターに既に在り、それが働いているからこそ心臓は鼓動しているし、生物は生きていることが起こっていると。

それは、「未知なる”思考を超えた愛”、未知なる”至高の大慈悲”」、”最大限の知ること”を超えた神聖なる根源との接点であるといえようか?


鏡とは意識の座のことであり、この意識の座を思考である私という観念が覆っており、この鏡の表面部分である心が脳と同一化してしまっているので

脳が眠るとき一緒に眠ってしまう。それは心が未発達であるからであり「形成途中のサイコノエティック体」がまだ形成されていないからであろうか?

鏡、これは霊的諸体の松果体の場所にあり、そこから二元分離が、即ち私という錯覚が投影されている神聖なる現象界を投影している地点。

この意識の座からは、対象世界及び私、個人という錯覚が投影されているが、

この意識の座自体は個別ではなくて全体性でありすべての人類でただ一つであり

ラマナ・マハリシのいう「意識が投影されているスクリーン」(このスクリーンは個人のではない)であると思われる。御霊を現す御魂とも言われている。


剣とは同じく形成途中ではなく「既に形成されているサイコノエティック体」にあるクンダリーニが上昇する霊的脊柱のことを指している。

これがもし実在していなかったらこの二元分離の現象界も私というマーヤも現象することはできないし、根源の計画が成就することもない。

この剣を突き抜けて天と地が繋がり、自と他は一体となり、主体と客体は融合し、本来の全ては一つであったことが現前するといわれているからだ。




さて、ここでの鏡とは意識の座であって、そのスクリーンに映し出されている観念や感情や個人的な記憶の思考ではない。

その意識の座はそれぞれの個体にあるけれども、それ自体は個的ではなくて普遍的なものだ。

この、それぞれの個体にあるこの「普遍である霊魂」の内奥を通じてこの世界、そしてこの私という錯覚も投影されているのだろう。


またこの剣があるからこそ、天と地は繋がり、二元分離は解消されるのではないか、クリエーターの成就の計画はここにあるのではないか?


そして勾玉は最大限に神聖なるものであり、「至高の愛である生命」であり、直接そこに、ましまして在るのは生きておられる生命の源泉そのものであろうか?


以上のことからして、即ち心臓は鼓動を続け、呼吸は行われ、行為は起こり、意識が生起している。



三種の神器は既に全ての人々に在るといえる。

しかし、それはまだ顕在化していない、現象化していない。

この三種の神器とは、私達私という観念が所有するするものではなくて、所有すると錯覚する自我が完全に消滅したときそこに顕現している。

なぜならそれは既に在るのであり、其の顕現とはその三種の神器、自らが顕現するのであり、顕現は個人という観念の意志や意識に拠るのではない。

三種の神器は全ての人に既に在り、そして等しく実在しているからであると。

その三種の神器は、三種の神器自らの神聖なる意志により、其れは実現するのであり、私達、私という観念の自由意志に拠るのではないと

思われる。


具体的には既に「完成されているサイコノエティック体」に「形成途中である私達のサイコノエティック体」が合致したとき

その三種の神器は姿を現すのであろう。その具体的な証明が高次元のテレパシー、高次のテレポテーション、複数の場所に同時に身体を

現すバイロケーション、個人を超えての高次の物質化などであるといえようか。

(ここでわざわざ高次のというのは高次ではない現象も非常に多いからである)