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目がない私



私には目がない。目がないので見ることが出来ない。

私が視ているのではない、眼球など器官と神経が正常にネットワークで作動し、脳内の知覚が整い、瞼の開閉が行われ

統覚機能が機能しているので「視ていること」がおこっているのであって「私」が視ているわけではない。

シャンカラは眼球を動かしているソースと瞼の開閉をしているソースは異なっていると言っている・・。

「視ること」が起きており、その「視ていること」が「視ている私」を産みだし「私が見ている」との錯覚が起こっているのだ。

「見ている私」という錯覚をおこしている根源は、

産み出した心(すなわち私が見ているという実感)によっては見られることなく心そのものを見ているのだと言われている。


私には目がないのだから、肉眼がなくなったら、死後には記憶の反応として記憶界のなかを彷徨うことになるだろう。


肉眼の目を閉じてみればすぐ分かるように、何も見えないのは、個別的霊魂の目も、諸体の目すらも開いていない証拠だ。

この自我である私とは、エーテル界もサイコノエティック界も見えていない段階なのだ。まして思考を超えている「あるがまま」を

みることがどうして出来ようか?


この見ることが出来ない、目のない私とは誰か?

それは私という自己意識であり、他者を知覚する自己意識であり、悲しみと苦しみと恐怖そのものである「私」のこと

即ち人類に同じの私という観念=自我なのではないか?

その私という観念がそれぞれの個体を通じて、私自我として生み出され、活動し、維持され続けている。




目とは意識の事であり、そのそれぞれの自我の段階の状態、すなわち統覚機能の状態でもあるといえようか。

見ている目に応じて「私」は異なっている・・

エーテル(氣)を見ることの出来る目、サイコノエティック界を見ることの出来る目、個別的霊魂を見ることの出来る目、

そしてこの見ている私という「私という観念」そのもの(恐怖そのもの)を見ることの出来る目

ここまでが意識の限界であり、自己、自我の限界だと思われる。



ここからは心や意識を超えている「気づき」の目であり、クリシュナムルティーによって「思考なく見なさい」と云われる次元を超えている目の事である。



この目が発顕した場合、始めて「行為は起こっているのだ」といえるのであって、行為が起こしている意識が即ち「自分」が「行為しているという実感」や

「他人が行為しているように見えてしまう」意識や、「自分が選択している」、「私の自由意志」などの実感である意識が、

「行為は起こっている」などと、さも覚者のように喋っても、それは嘘をついている。言っていること自体が矛盾しているからだ。

その「行為は起こっている」と言っているその意識こそ、起こっている行為が生み出している意識に過ぎないと言うことだからだ。

この事を大脳生理学者が究明したとしても、その学者は行為の結果の意識であり、そのことを理解したということではない。


だからラマナをまねて「行為は起こっている」などと言ったところで、その発言は自己矛盾しており、嘘偽りの言葉に過ぎない。

自身に対して嘘を言っているのだ。

その「行為は起こっている」と言っている、その私こそが「自分が行為している」というその起こっている行為の実感そのものだからである。

その「自分が行為している」との実感をしているのが、行為の結果である私=私という観念即ちこの現在の私のことだ。


即ち目がない私、見ることが出来ない私、その私とは行為によって生み出されている私なのではないか。

この「私が行為しているという実感」と、その「実感である私」とは「行為」によって生じている根源による「マーヤ・錯覚」なのではないか

そしてその「錯覚」の私こそ、この朝、目を覚ました私なのだと思われる。(夜には夢を見て、熟睡する私なのだ)


この現在の私とはほかならぬ根源による行為によって生み出されている私、自我。

即ち、目がない私、「自分が行為しており、自分の自由意志で選択している」との実感に溢れているこの私のことだ

それ故に当然のことながら他者がいて、その他者が同じように選択して自由意志で生き、且つ行為していると実感するこの「私」の事である。


私には目がない、

従って見ることは出来ないし見る事はないだろう。

何故ならこの私とは記憶であり、根源が起こしている行為によって生み出されている私だからだ、

その私とは「自分が行為しているとの実感を持つ記憶」だからだ


根源によって生じている非実在の私、それは根源が演じているこの私のこと

この私とは思考そのものである私、”自分が思考しているという実感を持つところの起こっている思考”に他ならないのではないだろうか

この私とは根源によって起こっている思考であり、この根源によって生起している思考がこの目のない私の正体なのではないか


と思ったりする今日この頃である