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無限遠点





無限遠点とは何であろうか?

それは同じ次元(心)ではあるけれども、限りなくこの次元(心)を遠くから俯瞰的に観察している地点(観点)のこと。

だが

自己・自我を客観的に観察しているこの私とは無限遠点ではない。


自己・自我を意識し客観的に「私である自我」を見ているのは、誰だろうか?

それはその自我・記憶が自らを分離・分割して、自らを観察している観察者を創り出しているのではないか?

従って自我を観察しているのは自我から分離した自我自身であるといえよう。


恐怖心が自ら自身を分割分離して、恐怖を観察している「恐怖の観察者」を生み出し、

その同じ恐怖が、恐怖を恐れ恐怖から逃げようとしている。・・実際には恐怖しかいないというのに。

恐怖を見ている私とは、恐怖自らが分離して生み出した「恐怖を観察している私」であるといえる。


自我が自我自らを分割し自我の観察者を生み出し、自我を意識し自己改善しようとしている。

思考は自らを分離して観察者と観察される者の対立を生み出した。


怒りや暴力や無関心を観察している自己とは誰であろうか?

それは、その同じ怒りであり暴力であり無関心なのではないか?


怒りや暴力や無関心を対象として意識して、それを観察している自己とは

その怒りや暴力や無関心が自らを分離分割させた観察者なのではないか?


だがしかし、思考によるこの理解は決して思考を超えた理解ではなく、その観点とは、いまだに同じ次元である観点であるということ。

その思考による理解とは未だに無限遠点ではなく

ましてや決して意識や心を超えている次元ではないということ。


だがしかし、その無限遠点とはこの次元を超えることが起こるそのジャンプ台でもあるということ

上位次元(それは諸界のことではない)との接触地点でもあると言われているからだ。



「観察者は観察されるものである」と言うKの言明は、この無限遠点を更に観照している上位次元の目からである。

Kの「気づき」と言われるのは”次元が異なっている上位次元の目”のことであり、それはこの意識の地平ではない。

無限遠点がいくら私は自身を観照していると言っても、それは観照ではなく観察であり、心の中であるに過ぎない。

死後を転生している意識とはこの同じ地平にいるのであって、決してその気づきのことではない。

”体験し経験している私”とはこの水平上の同じ次元であり「気づきの目」のことではないと。


それは鏡が全く透明になったからと言って、鏡に映る太陽を見て”私は太陽だ”と言うに等しいことだ。

確かに鏡は透明になったので太陽を映するとが出来る様にはなったが、決して太陽自身ではないからだ。

鏡はあくまで鏡であることだろう。この鏡こそマインドであり、マインド・心が完全に浄化されたときそこに太陽が映し出されると。


私達の心とはこの鏡のことでもあり、諸体の脳の状態、脳の「質」とも密接に関わっていることだろう。

「鏡である意識」とは、この無限遠点に位置しているのだとおもわれる。


この無限遠点の意識と日常の意識とは同じマインドあっても確かに異なっていることだろう

これを書いている現在の久保栄治の意識段階は無限遠点の鏡の意識ではなくて、単なる記憶の意識だからだ。


日常の意識とは行為の結果であり、脳に起こっていることの結果であるに過ぎないのではないか?

脳が朝に、目を覚ましたということの結果として、この心、この自我は朝に同じく生じているのだ。

正確には自我は脳と同じマインドあっても異なっていると言えようか。








朝、目を覚ましたのは誰だろうか?

私が朝、目を覚ましたのではなくて、

脳のある部位が作動したので(行為が起こったので)私という自己意識が再起動したのである。そして記憶が動き出した。


そして「私が目を覚ましたと実感する私」という自己感覚が生じたのである。それは各体の記憶が継続しているからである。

実際は根源が生命をあらしめ、血流を循環させ、呼吸させ、諸体を用い、脳を使い、意識を生じさせ神経を通じて行為を起こし

統覚機能を使って自分が行為しているとの実感を起こし、その実感の記憶が働いているのではないか?

根源がそれらの記憶である心・意識・自我を生じさせ、持続させておられるのではないか?

私達個人とは根源が生み出した自然のものだといえるのではないか?



自律神経による自立的な行為も、随意筋による意識的行為も、行為とは共に生命によって為されているように

この意識も生命である(思考ではない)根源が使用している脳によって生じているのはないか。

脳は意識や思考を生じさせているけれども決して意識や思考ではない

脳それ自体は意識や思考を超えている次元が維持し機能させているからだ。


この私達である統覚機能とは

行為を起こし、脳をあらしめ、脳を機能させ、脳に思考を発生させている未知なる純粋意識・根源から

条件付けられた諸体の脳の記憶であるこの自我意識にとっては未知である純粋意識・根源から

生じている


・・・とそれを「思考」しているのは無限遠点である鏡の意識ではない。

・・・・・とこのこれらを思考しているのは、脳に生起している思考なのだ。

・・・私とは、記憶であり、脳に生起している思考なのだ。

・・そして思考とは行為の結果なのではないか?