まだ私は生まれていない
①ロボットの私
行為する肉体と
その頭脳の記憶の私とは
根源が肉体機構を通じて生み出した私であり
その肉体が行為していて、
そのDNAの私が思考している
個体の肉体に結合した心である自我が行為しているのでも
同じくその肉体に浸透した心である自我が思考しているのでもない
起こっている出来事や思考や感情に対して
それらの条件付けられている脳から生み出されている機械的な私群は記憶となって条件反応している。
それは機械的なプロセスであるといえる。
脳で受信して起こっている恐怖やカルマからの衝動に対して条件反応しているのは各体の脳の反応である
その機械的私は決められている事を決められているように条件付けに従って反応する
条件反応的にしか行為しない、そして思考しない。
それらの私は個人・人格と呼称されるが
全くもって私ではない。
ここ頭脳内ではまるで、まるで操り人形の舞台の人形のように
行為も、それに対する条件反応としての思考や感情も、映画のように起こっている
DNAという基本設計図に従って思考し行動する・・それはロボットである。
この肉体の脳の反応の私とは、
根源による高次のロボットだと言える。
②私という観念の私・すなわち自我こころ
だがしかし、現在意識も潜在意識もそれだけではない
それとは別にこのロボットに巻き込まれている私がハートにいるではないか。
それが自我、私という観念である。
その起こっている事に対して苦悩する分離した心の私がいる。それが自我・私という観念だ。
「心」であり、「心」で成り、心の私というその肉体と頭脳の記憶に一体化した私という観念が
この果てしない輪廻の人生の中で悩み、悲しみ、楽しみ、浮かれ、懊悩し、
感動し、笑い、恐怖し、不安の中、安定を求め、至ろうとして努力している。
というのもこの「私という観念」こそが
プライドであり、自他に分離しており、苦しみであり、悲しみであり、恐怖そのものであるからだ
この私という観念が心に浸透し、心が混濁している
(若しくは私という観念が心でもある)
それがハートに位置しているサイコ・ノエティック体という発展途上の私のことである。
またハートに位置する心の私、即ち「私という観念の私」自我は
肉体とその肉体の頭脳が生み出した私のことを
自分自身と勘違いしている心の私でもある
まだ私が誕生していない私だ、
私という観念の私だ
心である私だ
その私は私という観念であって未知なる本来の私ではない
その心は通常は
それは混濁した心と言われ、胸にありながらも主に肛門と性器で機能しているといわれている心の私だ
起こっている行為と思考と感情と出来事とに「反応する脳の記憶」に巻き込まれ苦悩する私とは、この胸に位置している心の私だ
エゴイズムにまみれ自尊心とプライドに汚染されている心だ
私とは心には本来はないのに、それを逆転して「私の心」と思っているのが心を汚染している私という観念である
それは脳に浸透した根源からの「私という観念=の心」のことであり
二元分離の大元、時間と空間を生み出している根源からの心である
だが心は未知なる私ではない
未知なる私とは心を生じさせている根源であるからである
心とは蝶が生まれる前の蛹なのだ
蝶が生まれる為には蛹は死ななければならない。即ち脱皮しなければならない。
その終焉しなければならない私は「こころの私」と呼ばれ、通常は胸に位置している
それは混濁した心から成り立っている
それは悲しみと恐怖と暴力から成り立っている。
ハートに位置し「私という観念」と一体化している心が「私・自己」の分離感覚そのものを味わっている
だが本来の心とは分離している私、分離している心ではない。
未だ今のところ個体に於ける心は純粋化しておらず「汚濁している水」のようなのだ。
ハートに位置するこの自我の私(心の私)は、完全に肉体及び記憶の私と同一化 し、
肉体の行為を自分の行為と感じ、頭脳の思考を自分の考えと実感し、勘違いしている 。
何故ならその勘違いしている私とは心自体ではなくて「私という観念」+「心」というものだからだ
透明なる心には本来「私という観念」はなく、従って「私」などあるはずもない。
この勘違いしている私こそ「私という観念によって混濁した心」なのだ。
このハートに位置する「私という観念」と一体化している心、
だが心そのものには本来は透明なる鏡であり
分離がなく、あなたと私という区別も無い「気づき」を映す事が可能だ
だがいくら美しく純粋であっても心は二元分離であり時間と空間に束縛されている限り
心とは未知なる全体の私ではない
新たに分割不能なる未知なる私が誕生しなければ 私は未だ生まれていない、といえる。
③「在る」実在・自他に分割不可能な私
私とはまだ誕生していない 。誕生していないが既に「在る」。「在る」。
誕生するためには胸に位置している心・自我であるその私
サイコ・ノエティック体がサイコノエティック体として再形成されていなければならない。
しかし既にサイコノエティック体は在る。自他に分割不可能な全体として。
なかったなら息する事も、思考する事も、私という観念もないからである。
実在という基底が在るから現象は起こる事が出来る。
必ずや未知なる私は自我から誕生することだろう、蘇生することだろう、何故なら既に在るからだ。
そしてその未知なる私はあるがままをあるがまに見ていることだろう。
けれどもその未知なる私とは心でもなく現在意識でも潜在意識でもなく、それを支えている「実在」なのだ。
その未知なる私とは自分と他人、ここと彼処、見る者と見られるものに分割されない。
INDIVIDUALとは自分と他者に分割不可能な全体としての私の事だ、それが未知なる私だ。
それゆえ頭脳が生み出したこの記憶の私、私群は私ではないし
恐れ、怯え、憎み、威圧し、高慢で、自尊心である私という観念の私、も私ではない。
自我と呼称される私という心の私も、私ではない。
それらの既知なる私とは、未だ生まれいない未知なる私(自他に分割不可能な私)のことではない。
私達である、私という観念が知りうるのは既知の領域のみであり
その既知なる領域は未知なる領域が実在しているからこれらの現象が可能なのだ
この既知なる意識や記憶ではその未知なる生命そのものや実在には否定的に接近できる。
記憶は、今しかないのに時間を分割し過去現在未来として思考してしまう。
過去現在未来は記憶の中にのみあるに過ぎない、そして記憶が無いとき自我もなく今だけがある。
空間は分離していないのに自分を身体と又は質料と同一化して空間をここ・あそこに分割してしまう
見る者は見られるものであるにも拘わらず主体と客体に分割しているのは心に他ならない。
他人を見ているのは私ではない、私ではないものが他人を見ているのだ。
もし、私であるなら他人と私は分離されていない非分離の状態を見ているからだ。
自分と他者は分離していないINDIVIDUALなのに自分は他者と異なると実感しているのは非実在である
それは私という観念だ
既に「在る」のに、私という観念は在ろう、成ろう、至ろうとする。既に「在る」が理解できない。
しかし本当は未知なるものはすでに在り、既に成り、既に至っている。
私という観念の本質は分割で在り分離で在るから
真実においては自他の区別というのはないというのに
自他に分割し、自分と他人を別々だと分離してしまう、そう実感しているのは私という観念だ。
本当には「未知なる私」は自他に分割されていないにもかかわらず
私を他人と異なる私だと感じているのは私ではなく私という観念である
未知なる私は、私を自他に分割する事は不可能であり、分離した他者を知覚しないし、認識しない。
心のこの私とはこの自我であり この心の私を観察しているのが心の私・自我である。
この見られている心の自我と見ている心が分離していないとき 自我は終焉すると教えられている。
正しく分離する事なく見る「正見」が誕生すること
その新たに生まれた正見こそがクリシュナムルティーのいう「心なく見なさい」の「見ること」なのであろう。
成ろう、至ろうとしている私は、私という観念でありわたしではない
過去現在未来、ここと彼処、自分と他人に分割しているものは私という観念であり分割不可能な私ではない
未知なる私は既に在り、今ここにあるからこそ意識も無意識も生命も無明も現象できている
「在る」は既に今ここに在る。なろうとするものは無明であり、私という観念ではないか
そうであるからこそ聖賢は口を揃えて
なるのではない、あなたはすでに「在る」!といわれるのだ
この「在る」は意識や思考や物質や質料ではない、まして記憶ではない、それらの基底なのだから
なろうとするのではなく既に「在る」
あなたは既に在ると言われている。