行為していないと思考している
ラマナ・マハリシなどのアドヴァイタの覚者の言葉を読んで
「行為は起こっている」
「行為は神が為している」と思考しているのは
他ならぬ「自分が行為している」と実感している「“私という観念”の私」に他ならない。
そしてこの私という観念による実感「私が行為している」とは行為の後に発生しているにも
関わらずこの私という観念は自分が行為しているのだと実感している。
これが脳に起こっているところの脳が起こしている錯覚
神のマーヤであろう
この神のマーヤである私という観念が実はこの観念は自分は行為していると実感しているにもかかわらず)
「自分は行為していない」というのだから
そこにこの‘観念の私’による自己欺瞞、マインドの嘘が発生しているのだ。
「行為は起こっている」
「行為は神が為している」
「選択がある限り自由はない」
などの高次元の気づきからの真実の描写は
「私という観念」ではなくて、思考を超えた「気づき意識」から発せられた言葉を超えている言葉であり
その思考を超えた『「気づき意識」の究極の現実』なのである
この純粋意識は三界という次元を超えている意識であり、この三界を成立せしめている
意識であり、三界の意識ではない事だ。
だが
私達である「私という観念」がそれを知ることは出来ない。
私達であるこの意識は私という観念であるからだ。
私達はそのことを誤解することは出来ても理解することは出来ない。
その言葉を観念として記憶し、さも自分の言葉のように表面的に信じ込んでも本当の意味では
知ることはなし、わかってもいない。
私達とは脳によって生み出されているマインドだからだ。
理解せず分からないのは「私という観念」とは無知であるからだ。
別の言い方をすれば
それらの純粋意識の現実とは観念や知識では「知られることはない」のである。
覚者が指し示す現実とは知識や教えや信仰を超えているからである。
これは知覚を超えている真実の現実であり、
知覚から成り立っている私達とはマーヤでしかなく、「自分が行為している」が私達の実際の知覚なのである。
それら「行為は起こっている」とはマインドが終焉し自我が消失したとき初めて理解される事柄なのである。
クリシュナムルティーのように「私は世界である」の純粋意識であるなら
その言葉を理解することだろう、そして、「選択がある限り自由はない」ということだろうが、
私という観念である私達はその言葉を聞くやいなやそれを観念や概念に取り替え、すぐに
記憶し、そしてさも分かったように言うのである、「行為は起こっているのだ」と。
しかし、それは実感でもないし、理解でもない。それは情報であり単なる思考であり信仰にすぎない。
もしその言葉が実感であるなら腕を切断され、火に焼かれても何ら影響を受けないことだろうからだ。
何が起こっても影響されないことだろう。次元を超えたからである。
この五感や六感が自分の感覚や知覚として実感されている限りは、この私達とは私という観念
であり、その私という観念はそれを理解しているのではなく、理解のないまま理解していると
錯覚している、否、「自分は知っているのだ」と自己自身を欺いているのだ。
現在のこの私達は私という観念であるのに自分のことを純粋なる意識だと自己を欺いている
のである。
この自我である私達は生まれ変わる必要が有る。サナギが蝶へと旅立つように
この新たに自我に気づきが誕生したとき、それと同時に脳は条件付けから解放される
この生まれ変わり(肉体のではない!!)、死と誕生は「する」ことではなくて「起こる事」である
この場合の起こる事とはラマナ・マハリシの在る事であり、クリシュナムルティーの見る事でもあるといえる
だが、これは在ろうとする事ではなく見ようとする事でもない
この在ろうとする事、見ようとしているのは在るものでもなく見ているものでもないからだ
それらなろうとしている私とは私という観念にほかならない
このなろう在ろうとするもの私という観念が終焉したとき
始めから在ったものが姿を現す・・と
私達・私という観念は「行為は自分が為している」と実感しているマーヤそのものなのである。
その実感がマーヤであり、「私という観念」の知覚なのである。
この世界を対象として見、他人を自己とは別と見ている「目」がマーヤなのである
そしてこのマーヤの「目」の私こそ私達・私という観念に他ならない。
そしてこのマーヤの意識が肉体に入り浸透したのである。個別的霊魂である。
この個別的霊魂を使って根源が脳内に宇宙と世界と出来事と行為とマインドをそしてそれを知覚する自我を
投影しているのだと教えられている。
だから
私という観念である私達は神のマーヤそのものであるから「自分は行為しているのだ」と実感しているのだ。
私という観念が肉体に浸透し、自分が行為しているという実感から抜け出せないでいるのだ。
というのも抜け出せないのではなくて私達そのものがマーヤだからだ、私という観念だからだ。
神の媒体なのだ。
私達が内奥の純粋意識と繋がり、身体である五感覚や、精妙体の六感覚から解放されたとき
思考や
行為や
衝動や
感情や
記憶や
選択や
知覚や
出来事である運命や
自己関心や
自由意志から、
そして
それらを自分自身と見ている自我とその自我の反応から、
されに
その個別の自我それ自体である共通の「私という観念」からも解放されたとき
「行為は起こっている」「神が行為している」と言えるのであり、その時初めて
「神が行為している」を理解するのである。
そのとき腕が切断され、火に焼かれても、意識は純粋意識と生まれ変わっているので
起こっていることに何ら影響をされることはないことだろう
何故なら肉体は私ではなく、思考も私ではなく、知覚も私ではなく、自己も私ではないということが
実際に純粋意識と結合し、自我が終焉した真の私によって理解されるからである。
従って現在のこの『私という観念の私達』にとっては
この「行為は起こっている」「神が行為している」ということを
決して理解しておらず誤解しているにもかかわらず
このことは『次元を超えた究極の真実である』ということをも信じている
即ちこれは『「次元を超えている真実」への観念なのだ』
私達である私という観念にとってはこの観念を超えている「行為していない」ということを観念する事が
正しいあり方であると云う事だ
私達、観念であるものにとって正しくない観念である「私は行為している」から離れ去り
正しい観念を持つ事が望まれる
それは自分が自分から離れ去る事に他ならない
または新しい意識がこの古い私という観念から誕生する事に他ならない
蝶がさなぎから飛び立つように、心は純化されていくのだ
そして心は本来の非個人となっていく
この現在意識とはまさに複合意識であり
私という観念の意識に他ならない
起こっている行為と選択、自由意志と運命、五感と脳の状態、諸体・肉体とそしてその内部構造
それを対象として観察し見ているのが私という観念である自我である。
そしてそれら起こっていることに対して「私という観念である自我」の反応が起こっている。
(自我・・これは非常に見えにくいので自我の鏡として、自我には自我が他者として投影されて知覚される)
さらにその奥に共通の「私という観念」である根本無明がある。
その根本無明である私という観念の根源は普遍・全体なる真の私である
選択と行為と出来事と肉体と記憶と五感を知覚しているのは自我であり
その自我を自我として知覚しているのが
自我そのものである根本無明の私という観念であり
私という観念を分離せず心や思考なく観照しているのが未知なる私即ち真の私であることだろう