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私とは誰のものか


私は、私がという実感を起こしているマインドとは誰のものか?

脳とは誰のものか?意識とは誰のものか?

この私はだれのもの?行為や出来事とは誰が起こしているのか?内部や外部とは誰のものか?

私という個人、このマインドの錯覚・・「私」・分離している私という実感・マーヤとは誰のものか?



誰が錯覚を実感しているのか?錯覚をしているのは誰か?

輪廻の中で、カルマに縛られ、行為しているという錯覚、その錯覚を脳の中枢から投影している統覚機能

そしてその錯覚それ自体であるこの「現実の私」とは誰のものか?

幾多の生という苦界のなかで誰が苦楽を味わい、誰が自他の分離を実感しているのか?

この恐怖、この不安、この競争心、この利己心、この「他と分離している私」とは

いずこから生じているのか?またこれらは誰のものか?


それはマインドであり、それらの実感とはマインドであるもののものだ

では、そのマインドとは何か?マインドである私とは何か?マインドはどこから生じているのか?

そのマインドとは誰のものなのか?

それは即ち記憶や、知覚や、認識や、対象を認識している自己そのもの、自分を意識する自己意識や、

意識、無意識を生み出している脳とは誰のものなのかという意味だ?


そして、これらのことがらについて「自分が考えている」と錯覚しているこの久保栄治とは、誰のものか

「私には私の考えが、あなたにはあなたの考えがある」と思い違いする私やあなたとは誰のものなのか?

私やあなたも、その恐怖も不安も願望も欲望も記憶も誰のものなのであろうか?

カルマや個別的霊魂とは誰のものか?





『私が解放されるのでもなく、私が悟るのでもない、何故なら生きているのは私ではないからだ

自分が生きていると思っている私、自分が行為していると実感している私、

自分が意識し、私が思考していると実感している私、

将来自分は解放されると思っている私、もしくは自分が悟るのだと思っている私とは

それはすなわち

生じている私、マインドの私、脳の私、それらの私とはシステムによって生起している結果だ。


これら「自分という観念」というマーヤからの解放が起こるとき

即ちその錯覚である私(マインド)の実感が取り払わるとき、

そこには始めからずっと存在していた気づきだけがあり

悟る私も、解放される私もいなかったのである』・・・と教えられている。


悟る私や、解放される私とはシステムの結果だ。その私は最初からいなかったのであるから・・ということ

その悟る私や、解放される私こそマーヤであり、根源の演技なのではないかということ・・


誰が苦しんでいるのか?苦しんでいる私とは誰か、その苦しんでいる私とは誰のものか?誰なのか?

誰が統覚機能を使って私という観念を即ち世界を投影しているのか?

誰がその投影であるこの私を、自分だと錯覚する統覚機能(個別的霊魂)を使ってマーヤを生きておられるのか?


では実際には誰が生きているのか?本当に生きて行為しているのは誰か?




聖賢は言われる

『生まれなかったものは死ぬことはない

生死とは肉体を自分だと錯覚したマインド・記憶のものであり、記憶ではないものには生死はないと

生死がないものとは身体と同一化した思考や自己意識ではない。

それは生死を観照し、自己を観照し、起こっていることを観照し、心を観照し、熟睡を観照しており

熟睡したり、夢見たり、覚醒したりしているものではない。

それは、その熟睡と夢見と覚醒を私なく、思考なく観照している非個人・非所の気づきだ』・・と