私は全託できない
私には「自分は全託している」と思っていても、全託は出来ないし、全託はしていない。
全託するにはその全託する「未知なる意識」を知っている必要が有ると言われている。
私・私達とは脳の条件付けに因って生じている記憶の反応であり、その未知なる意識ではないので
常に帰依し、全託しようとすることで何かを獲ようとしているに過ぎない。
私達が行っている全託とはまさに全託の正反対の利己的行為即ち所謂見返りであり収奪なのだ。
見返りを計算して全託の振りをして何かを獲ようとしている商人がこの思考・私達の本質なのだ。
この条件付けられている私達の意識は常に打算的、利己的であり
この利己心が私は全託しているのだと自らを欺いている。
する全託は全託ではなく、起こる全託が全託なのだ。
これが狡猾なる記憶の反応の常態即ち、自己欺瞞が私達・記憶の反応でありその特徴なのだ。
何も求めず感謝していると思っていても、その実、その見返りを計算し
全託しながら、その裏ではその自分の利益を考え
瞑想しながら(他人の成就を考えずに)自分の成果をだけを利己的に追求している。
記憶の反応である思考には決して感謝することは出来ないし、全託も出来ない、瞑想もできない。
私すなわちこの脳のシステムから生じている記憶の反応の意識には感謝もなく、全託もなく、瞑想もない。
そこには常に「分離している私」という記憶の私がいて働いており
何かに至ろう、安定しよう、神のようになろう、達成しよう、愛せるようになろうとしているからだ。
その思考こそ、他人は私とは別で、世界は私と分離している。私は個人であるという実感であるのではないか。
そしてその利己的な思考自身が「私は全託している」と自らを欺いている。
思考の本質が自己欺瞞であるからだ。
そしてその思考は「私という個別的実感」を伴いながら意識として生起している。
このものこそ感謝ではないもの、全託ではないもの、瞑想ではないもの、見ることが出来ないもの即ち私達だ。
起こっていることの結果である私という観念・私達。
私達こそ、起こっている結果であり、過去であり、この「私という実感である思考」に他ならないのではないか。
この私・思考とは即ち見ることできる目を持っていない「私という観念」に他ならない。
(肉眼の見ることとは視覚に至るシステムが働いている結果であり、それを統覚しているのが私という観念である)
対象を分離してみているものとは、根源によって創造された肉体を始めとする諸体の見るシステムによって生じた結果だ。
それは「私が見ている」と思い込んだ記憶である「私という観念」の錯覚に過ぎない。
その各体の脳を通じて、脳内の統覚機能にて対象を分離して見ているもの
それが即ち「無明」・マインド・私という観念にほかならない。
それが分離している私自身として、またその私が知覚する対象としての錯覚作用が起こっている。
他人の苦しみは自分の苦しみであるのにそれを実感できないのだ。
聖賢の方々が、「私は世界である」と云うとき、
その私とはこの私という観念=心の知覚作用ではない。それは分離していない純粋意識だ。
聖賢の私とは肉体や諸体ではない、個人ではない、まして記憶の反応ではない、心ではない。
それは勿論、私という観念でもない。
それは全生物の脳のシステムを
生み出し、維持し、動かし、機能させ且つ超越している未知なる純粋意識で在る事だろう
(私が行為しているという自由意志と諸体を用いて行為している純粋意識である)
それこそ感謝自体、瞑想自体、全託自体であるものであり、
それはこの私という観念である私達・記憶ではない。
それは知覚や対象や認識や経験の領域にはない
と思われる。