私はどこから生まれたのか?
この私という自己を意識している現在意識とは
どこから生じているのであろうか?
それは脳からであり
私という「他と分離している自己」を意識している自意識とは
脳のシステムによって(脳のプロセス又は条件付けに因って)
脳の中枢部から生じている「他と自己を分離し自らを意識する物質」である
と思われる。
その物質が肉体と肉体に起こっている行為や思考を
私は肉体だ、自分が意識している、自分が行為していると実感しているのではないか。
起こっている行為が行為している私を生み
起こっている思考が、思考している私を生じせしめているのだといわれている。
自己・私という「対象と分離している実感」とは、脳のある部位から生じている物質の意識なのではないか。
それは記憶であり、その感覚的実体は恐怖なのではないか。
限定されて知覚している意識そのものが、脳から生じている物質の働きだと云うことだろう。
この物質とは勿論、諸体の脳も含めるので厳密に言うと霊的物質だということだ。
「私」「私が」「私は」「私の」と自己を意識しているのはその物質なのであろう。
けれどもそれはラマナ・マハリシ達が実感している普遍的な私(対象と分離していない”世界は私”の私)
「思考なく見ている」気づきではない。
その「気づき・正見」とはこの脳が生み出している「自己を意識している物質」ではない純粋な意識だが
「気づき・正見」を意識しているのは条件付けが解除された脳の物質の方だ。
だが現在の人類の脳から生じている物質、この私の現在意識(脳細胞が条件づけられている状態)では、
気づきの認識は不可能だろう。目がないものには正しく見ることは出来ないからだ。
私とは条件付けられている記憶の反応だからだ。
その物質が変換しなければ(脳細胞の条件付けが解除されなければ)「思考なく見ること」は不能である。
(けれどもその変換はその物質側の利己的意図・なろう・あろう・しよう・至ろうが働いている限りは訪れない)
即ち「私なく見ている目」とはこの脳物質側の自己意識にとっては未知なる純粋意識なのだ。
脳のプロセス、脳の条件付け、若しくは脳のDNAによって生じているこの物質がこの私達の自己意識であり
日常で意識し意識され常に活動している、思考とその記憶の条件反応である。
それは脳の中枢部から生じている(又は脳の中枢部から投射されている)と思われる。
結局は、行為者は行為であり、思考者は思考であるなら、その双方を源泉が用いて演じているのかもしれない。
もし「思考なく見る」目を脳細胞が同調できる状態に変換されたら
即ち、脳の方の意識が「その思考なく見ている目」を意識することが出来る状態であるとき
(脳の条件付けが緩和されたとき)
Kの言うように「私は世界である」ということであろうし、他を分離して知覚する私はいないことだろう。
分離している他者も私もいなくて、私はあなたであり、私は動物であり、植物であり、世界であることだろう。
この目の見ることの片鱗を、もし、脳が受信できる状態であるとき、そして、あるがままが在るがままに見られるとき
そのとき、あらゆるものが私と分離していない状態であることだろうし、
即ち「殺す者も殺される者もわたしであり」「どこにも私がいる」という「意識ではない本来の私」の実相が顕現することだろう。
自と他を分離し、主体と客体の分割をしているのは私という観念であり、脳が生み出している物質の意識だからだ
それが即ちこの私に他ならない。それこそそれは、この意識している心に他ならない。