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思考している私を実感しているのは私という観念ではないか





通常は誰しもが自分が考えている、自分の思考だと実感している

「私が思っているのだ」と

しかし

その「私が考えている」と、その私を実感している私にこそ照明を当てるべきなのではないか


私が考えている・・と、思考する「私」を実感しているのは「私という観念」なのではないか

気づきであるならば思考が思考者であると見ているからである。

実際にはそのような分離している私はいない。そこには私はいない。

そこにいる私とは「私という観念」であり、その観念は虚偽の観念だ。

条件付けられている心が私という実感をし、その条件付けが自意識なのだ。


「私が考えている」「私が仕事をしている」「私の才能だ」、または「私の段階はこうだ」

「わたしが成し遂げた」「私が行為している」「私は悟っていない」と実感しているのはその私だ

それは分離した私であり、私という観念であり、根源から派生している私マーヤ意識=心ではないか。

私達のこの意識とはまさしく気づきではなくて「私という観念」の意識であるからこそ

いつも、私は私はと自己を意識して、自己を実感し、恐怖しているのである、

この意識とは気づきではなく恐怖(私という観念)なのではないか。



私が思っていると・・「私」を自意識しているのは気づきでも高次思考でもない。それは「私という観念」なのではないか

平常、私達は自分が考えていると実感しているのだろうか、それとも思考は起こっていると実感しているだろうか?


その考えているところの”私という「思考している私」という実感”が残存している限りは、

無明の中にいることだろう、と

無限遠点、高次思考、若しくは心の上部の意識(気づきではなくても)であるなら

思考しているのは思考者ではなく、それは起こっており

思考している私=思考者は思考だと言うことが

領解されているからとおもえるからだ。



しかし、未だ私が考えているという実感がある限り、その実感とは「私という観念」

がしているものであり、心は私という観念によって混濁していると言えるのではないか

人類のこの個体及び個体の脳の心は混濁しており、未だ分離ではない気づきは誕生していないのだと


私が思っている、と”私”を実感し、その私を自意識しているのは気づきではなくて「私という観念」なのだ

思考している「私」、意識している「私」を実感し自意識しているのは気づきではなくて「私という観念」なのだ

その私を自意識している意識は「私という観念」の意識であって、気づきでもなく高次思考でもないことだろう

もし気づきであるなら、思考者は思考であり、それら思考は起こっていると実感していることだろうからだ

思考している私はそこにはいないのだ

気づきには私という実感は含まれていないからだ。気づきには私という実感がない。

私のもの(私という観念のもの)ではないからだ。


私が行為している・・と「私」を実感しているのは「私という観念」なのであろう

もし気づきであるなら決して自分が行為しているとは感じていないことだろうからだ

気づきの意識に於いては、多分、行為は起こっていると実感していることだろうからだ。


この私が行為しているという、行為の主体は私だと感じているその意識とは無明の意識だと思われる。

もし私という観念ではなくて真実の意識であるなら

私が行為しているというその私という実感はなく、行為者と行為とは起きている事であることを覺知しているだろうからだ。



私の人生、私が生きている、私はどうなるのか、私は、・・・と私を実感しているのは「私という観念」ではないか

その私の人生、私の生命と思い込んでいるのは「私という観念」であり、気づきではない

その「私という観念」がその「私の人生」「私の状態」「私の位階」「私の健康」を意識し、「私」を実感しているのであろう


真実の知覚であるなら、そこには私を実感し、私を知覚している私はいないことであろうからだ