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自我を見ているこの私とは誰なのか?






私が高慢を見ているのだろうか?それともその高慢を見ている私こそ、その高慢自身なのではないか?
私なる実体が高慢とは別に存在していて、その高慢を観察しているように思えるが・・それは果たしてそうなのか
高慢が自らを分離して、「高慢を見ている私」なるものを生み出してるのではないか?
それであるのに、その高慢が自ら自身である高慢を非難したり、高慢を改善し謙虚になろうとしているのだ


通常は私が欲望を観察して、その欲望はよろしくないとか、欲望を少しでも改善しなければならないといっているのだが
では、その私、欲望を観察しているその私とは誰なのか?
その欲望に気がつき観察し、その欲望を非難し、欲望を消滅させようとしている私こそ欲望そのものなのではないか
欲望が欲望である自らを分離させ、欲望を観察している私なる主体を出現させているのではないか
それで欲望そのものである私が、自身である欲望から逃避しようとしているのだ。


私が嫉妬心を見ているのか、それともその嫉妬心が「私が嫉妬するなんて?!!」と言うところの私(嫉妬の観察者)を生みだしているのか
この、自らを主体と客体に分離する矛盾は嫉妬心自らが起こしているのではないか?
嫉妬心が、自身である嫉妬心を見て、これではいけないと思い、自らを隠そう、若しくは自らから逃避しようとしているのではないか


私が恐怖を見ているのか?それとも恐怖を観察し、恐怖に怯え、恐怖を何とかしなければならないといっている
この恐怖の観察者である私こそ恐怖そのものなのではないか?私とは恐怖なのではないか
恐怖が自らを分離させて、恐怖に怯え、恐怖から逃避しよう、若しくは恐怖を消滅させようとする私を生じさせているのではないか


私が自我を見ているのか、それとも自我を見ている私こそ自我(エゴ)そのものなのではないのか
自我を終焉させ、自我を消滅させようとやっきになっているこの私こそ自我なのではないのか
自我が自我を観察し、自我を見て、自我を良くしようとし、いろいろとワークしたり、指導を受けたりしているのではないか
自我が自らを分離して、見ている自我と、見られている自我という二元性を生じさせているのではないか?


この自意識している私とは誰か?それはこの狭い記憶という自己意識そのもののことだが
いつも他人の目を気にしている(即ち自分にのみ関心がある)自己意識の(自意識している)私とは誰か?
それは常に分離している自己と他己を実感し、常に自分が人からよく思われようとし、賞賛されようとし、
自己にのみ関心がある私、(他人にどう思われるかは気にするが実際には他人に全く関心のない私)
この私こそが良くなろう、神のようになろうと努力する自己、即ち自我なのではないか
この物質である記憶(自己意識)の反応がこの自我そのものなのではないか

それは物質を生じさせている純粋意識ではない。この意識は物質である記憶の反応・自己意識に過ぎない
私達とはこの自己意識であり、心であり、物質なのだ。決して心を観照している純粋意識ではない。
私達の意識とは、「気づき」ではないところの「私というマインド」=私という観念なのではないだろうか
私達の意識とは条件付けられている脳が生み出している記憶の反応なのではないか
それが「私が」「私の」{私は」と実感する自己意識を生み出し続けている。

この自らを意識している自己意識こそ、即ち私という自己感覚を持つ意識こそ
二元性である心といわれているものなのではないのか

クリシュナムルティーが心なくしてみなさい・・・と言う「見る(正見)こと」が起こるとき
即ち、この見る事(本来の悟り)が特定の頭脳の細胞に起こるとき、
(但し、この脳細胞の変異は意志や行為や心によっては起こらない。為すことは起こるのであり、起こる事は
純粋意識に拠るのであり、自らを神と称する○○の自意識や自由意志や意識や行為の範疇にはない。
従って薬品や手術や修行や遺伝子操作や霊的手術や霊的操作や○○によっては脳の変異は起こらない。
脳の変異を希求する欲望こそ自我の欲望であり、その欲望が有る限りは自我の範疇に有る。
自我があり、自我の範疇であるその希求が有る限りその脳の変異は起こらない)
脳細胞の変異、それは根源が出現することの結果として起こる
脳細胞の変異は意識に拠るのではなくて意識を生み出す根源によって為される

その時クリシュナムルティーのいう、心なくして見るとは、どういうことなのかが理解されるのではないか
理解とは私に因って理解されるのではなくて、私が全く存在しないとき理解は起こる。と
その理解が起こることによって(その理解によって)クリシュナムルティーのいうことが理解されるのだろうと思われる


この私達の現在の顕在意識も潜在意識も、二元そのものであり、この分離であり、この脳の結果そのものに他ならない
この知覚は、その二元分離性によって寸断されており、正しく知覚することは出来ない
この私達の現段階での認識とは、条件付けられている脳によっての認識であり、記憶の反応であって脳の結果であり
脳を生み出している叡智の意識、叡智の認識ではない

この現在の意識こそ自らを分離させ、主体と客体に、分離させているマインドそのものなのではないか
「私は」「私の」「私に」を実感しているのはマインドであり、脳が生み出している意識なのではないか

であるから、自我を観察している私とは、
観察される自我(心)によって出現している仮想主体、実在ではない二元分離の現象なのではないか


と思索する今日この頃である