「誰も なにも していない」
誰も 何もすることはなく、何かをすることは出来ない
気づきの目であり、見ている目であるアドヴァイタの聖人の方は以下のように正見されている
「誰も なにも していない」と
思考は起こり、行為は起こり、意識は起こっている 私は起こっている
その起こっている思考と行為と意識により
思考している私、行為している私、意識している私が発生している
自己が発生している と
私も、あなたも、そして誰も、かれも
何もしていないし、何かをすることはないし、何も出来ない。
人類同一機構の脳にあらゆる思考は起こり、行為は起こり、知覚は起こり、記憶は働き、認識も起こっている。
そしてこの私も起こっている。
時期が来て、この私は,肉体を離れても、脳の記憶であるこの私は継続し、
見ている観照者がこの私や心や意識や思考や行為や知覚と同一化している限りは、この私が次回の生に、また引き寄せられる。
見ている観照者とは意識ではなく、また意識である脳ではなく、心なく、思考なく意識を観照している全体性である。
それは未知であり、推測することも、想像することも出来ないところの自他に分離不能で知覚不能な本来の私である。
(意識・知覚・認識・私・時間・空間とは脳の働きであり、脳に結ばれた観照者の純粋意識ではない)
心は起こっている。そして私という観念も起こり、私が生まれ、その記憶である自我も起こり、そして続いていく。
肉体も、諸体も、記憶であるこの自我も起こっていること、脳は起こっていること(脳は私が創造したのではない)
この意識も無意識も起こっていること
思考も、その思考を観察していると思考している思考者も
行為も、その行為を自分が行為していると実感している行為者も
知覚も、その知覚を、自分が知覚していると実感している知覚者も
それらは脳が生み出し、脳に投影されている聖なるマーヤなのではないか
「誰も なにも していない すること、できることは何もなく 全ては起こっている」
「私も あなたも 誰も、何もしていない 誰もが何もしていないし、何かをすることはないし、何もできない」
「誰も何をも考えることは出来ない、思考は起こっているのであり、私が思考しているのではない」
「生きている、為している、思考していると、実感する私とはその生が、行為が、思考が生み出した結果である」と
生きているのは生命であり
行為しているのは脳と身体(各種の)を使っている根源であり
思考しているのは脳と心を用いている源泉であり
それを自分が、と実感しているのは私という観念であり、私という観念を生み出した聖なるマーヤである
と、教えられている