脳が思考を生み出している
脳が思考を生み出している。
若しくは脳が思考を受信している。
脳細胞にはネットワーク機能があるからだ。
この思考は私という実感を伴っているので(というより思考そのものが分離した私だ)思考と、
その思考の記憶は「私の特別な思考だ」「私が考えている」と逆に実感するのである。
この私とは脳に起こっている思考の実感なのである。
まず初めに私というものがいて、私が思考しているのではない。
この私とは起こってる現象である。思考と同じように。
この私も(思考という私も)神の劇場の中の映像なのではないか
脳は神の劇場なのだ。私とは脳が生み出しているその演じられている劇中人物だ。
通常は自分が思考している、他人が思考していると、実感しているけれども
事実は全くその逆で、思考が脳で起こり、その思考が「私の思考」、「私の人生」だと思っているのである。
思考そのものが私なのである。
私とはマトリックス、生起している思考のマトリックスなのである。
その思考という物質は私という実感を意識しているのだ。それが自意識であろう。
その思考が起こって(脳に受信され、脳によって変換され)私という実感が生じ、記憶される。
この考えは、感情は、思いは、私が感じたり、私が思ったりしているのではない。それは生じている。
この行為は私が行為しているのではない、行為は生命と同じく起こっているのだ。
その私も、私という記憶も含めて、私自身は私のものではない。
私も、私のものも・・その錯覚も起こっているのだ。
それ故に思考は非個人的なのである。
この私という自我は非個人的なのだ。脳の結果だからだ。
これは思考の記憶だからだ。私と言う実感は脳の物質・記憶の実感であることだろう。
それは全ての自我は非個人的でかつ同一のシステムから生じているからだろう。
この世界には、私も含め、個人的なものは全く何も無い。私も、「私の」、「私が」、という実感や所有の観念を含めてだ。
個人の特別なことや、個人的な全ての事象を含めて、それは非個人的だからだ。個人という概念は非個人的なのだ。
目は、あらゆる階層・段階・次元の目で構成されているが、我見も正見もそして気づきもそれはそれぞれの段階
それぞれの次元の目であって、私の目ではない。
目は目であって私のという思考のものではないからだ。
目のことを私の目や他人の目だと思っているのは思考が思っているのだ。
目は個人のものではないし個人的なものではない、私というものが個人ではないように
きっと
気づきの目はこの脳が生み出している思考によっては把握(知覚・認識)されない普遍的な目それ自体であるのだろう
その全体性の目が脳の中枢とハートにあると言われている。
と最近思うのである