脳は私の脳なのだろうか
脳とは勿論私・個人のものではない
脳は私・個人が作ったものではないからだ
脳は私のものでも、私が管理しているものでもない
にもかかわらず私が脳を使っているかのように
脳のことを私の所有物のように感じさせ思わせているのは脳自体ではないか
その様な錯覚が脳が条件付けられている故に起こっている。
だがしかし
脳は決して,私のものではなく、脳を維持させ、かくの如く機能あらしめられているもののものだからだ
では脳の機能である五感はどうだろうか?
五感や知覚は自分が知覚していると思われるだろうか
視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚は勿論、脳が生み出しているのであり
私が五感を創っているのではないし、味わい、働かしているのではない。
私が美味しいと味わっているのではなくて、その味は脳が知覚しているのだ。
そうであるのに、脳が「私が味わっている」という錯覚を生み出しているのだ。
では行為とはどうだろうか?
自律的な無意識的行為は当然、脳が行ってるが、意志的行為に関してはどうか?
一般的には、脳の所有者、若しくは脳と結合した個人の「私という実体」なるものが行為をしている・・・
・・と、誰もがそのように思い込んでいるし、誰もがそのように実感している。
脳とは別の私が私の「脳」を使って、私が考えて、私が選択して、私が決定し、そして私が行為していると・・。
そのように見えているので、いわゆる行為の責任は私がとるのだ。と、社会ではそれが当然のこととなっている。
脳は私の所有物であり、私が脳を動かし、私が脳を使って、私が為しているのだと誰もがそう思い、そう実感している。
だがそうなのであろうか?それは本当にそうなのであろうか?
脳とは私の脳ではないのに、私の脳だと、逆転して思い込んでいるものは脳が生じているのではないか?
全人類がそう思い込んでいるものなので「脳の能力をアップする」とか「脳を改善する」とか言う商売が繁盛しているけど
それ自体が脳を通じて起こっているのだと言うことも知らずに、私という個人が脳を改良しようとしている
全く逆転している発想が生じている
それらの発想自体が脳を通じて起こっているというのにだ・・
脳をよくするのは脳を維持し創造したものにしか出来ないというのに。
それゆえに
脳を通じてあらゆる行為が起こっており意志的行為も脳を通じて起こっていることがらだとしたら・・・
実際のところ
瞼の開閉から、眼球の移動まで、シナプスとニューロンの動きや神経の働きまで「起きている事」であるからして
話を話すこと一つをとっても、舌の動作や、呼吸との関連や神経との共同作業などで成り立っているのであり
話すと言うことはあらゆる神経系統とあらゆる器官と組織を総動員しなければ可能なことではない。
それゆえに、そもそも話すという意志的行為は果たして脳が生み出した「思考・私・主体?」に可能な事なのだろうか?
これに対して
そんな考えはそうかもしれないしそうでもないかもという反応が脳に起こることだろうが
その反応も条件付けられている脳に起きていることだ
その考え自体さえもがシナプスとニューロンを経由して脳に起こっている思考なのではないだろうか
条件付けられているように反応が、記憶の反応が脳に起こっている。
思考に関してはどうであろうか?
あらゆる思考がその脳内に起こっているところのニューロンとシナプスが受け取る電気化学的反応でもあるとしたら、
その微妙な電気化学的反応はどこから起こっているのか?
ニューロンとシナプスを生み出し、維持し機能させている根源からそれは起こっていることだろう。
意識の内容である思考やこころはニューロンの励起で発生するとしても、そのニューロンの励起は
思考が為しているのではなく、思考や心はそのニューロンの励起の結果なのだ
思考のみならず選択も判断も、脳に起こり、脳を通じて行なわれているとしたら、
その選択や判断をしていると思われている個人の私とは、主体という立場を失うことになる。
デカルトの言った「吾思うが故に吾有り」が「思うこと」と「この吾」が分離しておらず一つの現象であるとしたら
「吾思わざるが故に吾なし」となる。思いも、それを自分が思っていると実感している吾も共に「思考」であり
思考は起こっている聖なる現象であるからだ。
主体は私ではなくて脳に起こっていること即ち脳を使用している根源だと言うことになる。
脳に起こっている思考が、わたしという想念、即ち錯覚なのではないか。
根源がその心を使い現象世界を現しているのではないか?
そして言葉を換えて言えば心がみずから自身である客体を対象として分離していると錯覚したのではないか?
実際には個別の私とは存在していないのではないか?思考だけがあるのではないか?根源だけがあるのではないか?
この個別の私とは、この個別の私の自己意識とは、脳・心が作りだしている錯覚の意識なのではないか?
「思考は起こっているのであり、思考している私=思考者はいない」とKは言われる。
「思考者はいない、思考が有るだけだ」と
脳とその脳の働きがあるだけで、脳をコントロールしている私個人とはいないと。
脳を機能させ、思考を生み出しコントロールしているのは脳の設計者であり、思考ではない存在であることだろう。
人類の意識である「私の脳」だとの実感、そのような誤って倒錯している思考も脳に起こっている物質だ
よくよく考えてみれば、思考そのものを(思考という物質を)、思考の結果である「個人の私」には生み出せない。
事実は逆に思考が脳に起こり、私が思考しているという錯覚をその思考が生み出しているのだ。
思考を観察している観察者とは、その思考自身なのだとKは言われている
それら思考も思考の観察者も脳を経由して生み出されているものに他ならない。
私・個人が考えて、選択し、自由意志で行為しているように見えていても
実際には肉体に行為が起こり、→脳に思考が起こり、→思考している私が起こっているだけなのだ
但し思考にはその脳のからくりが読めず自分が行為しているという実感・錯覚が生じている。
その錯覚すら私が錯覚しているのではなくて錯覚が脳によって生じていると云うことである。
それは私が思考していると思っているけれども、実は思考は脳に起こっている。
私達の私の実体(自我)である記憶も、思考の記憶のことであり、それも起こっていることがらだ
思考は物質であり、記憶も次元の差はあれども物質に他ならない。
物質によって思考は変わるのである、従って各次元の物質である私も変わるのである
薬物という物質は各次元の思考である物質に一時的に作用を及ぼすからだ。
朝、脳が目覚めたときに思考が目覚め、私という自己意識が顕れることからして、明らかなように
この私達の私とは思考の記憶のことであり、脳に起こっている事柄だ
脳に起こっている思考が自己意識の事であり、脳が朝に目覚め、夜に眠るのであり、
この思考にはあるがままを見ることは出来ないとKはいう
あるがままをあるがままにみるには純粋意識という目と脳が繋がっている必要が有る
純粋意識を受信できるニューロンが働いていなければ「見ること」は出来ない。
思考ではないところの純粋意識
物質ではないところの純粋意識
私という自己意識を伴わない純粋意識
思考では捉えられない純粋意識
「見るものは見られるものである」と知覚する観照者の意識があるという
思考にとっては未知なる意識であり
その純粋意識は脳の条件付けが外されたときに脳にも受信されるという。
それが「心なく見なさい」といわれている見ることが可能な「目」である。
だがそれは「なろうとする意志」や薬物や意識的行為(○○○○)ではもたらせない
脳の結果である意志や意識的行為によってでは脳の条件付けは解除されないからだ。
脳の条件付けが解除され、脳にその意識との同調が可能なのは思考や意志では不可能だ。
行為や選択や意志こそ条件付けられている脳の結果であるからだ
脳そのものを生み出し脳を機能させ
そして意志や行為を、そして私という実体感覚であるマーヤをもたらしている純粋意識
根源の純粋意識によって(観照者の根源)によってのみ、それは可能であることだろう
その根源の純粋意識によってのみ、その脳の条件付けは解除されることだろう
決して努力や思考であるものの目的や動機を持った修業や
薬物や霊妙な物質、意志的行為によっては
その開眼(脳の条件付けの解除)はもたらせない
さて
私から思考が生まれているのではなくて
脳から、そして記憶からこの私意識は生じて私は生まれているのであり
この個人、私・自己意識とは万人共通の脳が生み出しているのであり、この私という錯覚の実感は
万人共通のもの、万人に同一のものだと言える
近年ミラーニューロンの働きが解明されてきているが
さらにテレパシー的に(インターネット的に)各個体の脳を繋ぐ(共感する)脳細胞が存在しているのが発見されると思われる
ただ現時点での人類はこのミラーニューロンが活性化していないので
テレパシーやシンパシーの能力が弱いのである
いずれにせよこの思考とは(この個別的な私という意識は)
この私が起こしているのではなくて脳から生じている
思考は根源を通じて脳が受信している、そして「私は考えている」という錯覚が生じている
そして脳から生じた記憶(私という自己意識)から
さらに記憶の反応が起こっている
脳からの思考と、その思考の記憶からの反応である
私という記憶であるものの「この実感」とは全人類同一規格の脳が生み出した錯覚だ
私個人という実感は万人が全くおなじく同じように感じている錯覚だ。
それは人類共通規格、同一構造の脳がもたらしたものだからだ
だからいままでのすべての人類は同一規格の条件付けられている脳によって
同じように時空間の認識形式に縛られ、同じように思考が機能し自我が生み出され続けている
人類が同じなのは、思考だけではなく、味覚も、衝動も、嗅覚も、知覚も、
時間認識も、自分は他人とは異なっているという錯覚も、記憶システムの反応も
すべて同じように知覚され認識されている。
それは脳の構造が全く同一規格であるからだ。そして同じく条件付けられているからだ。
万人共通のこの不安、この恐怖、この嫉妬心、この増上慢、この絶望は誰のも
のであろうか、誰が恐れ嫉妬しているのであろうか?
それは勿論脳を通じて起こっている思考であり、思考自身がそれを感じているのだ。私ではない。
私という虚像は根源がお使いになっている。
私は、心は、根源の演技そのものである。
私とは脳が生み出している錯覚なのだ。この錯覚とは私は個人であってあなたとは異なっている・・・と
同じように同一の脳から生じた思考がそう思っているのだ
脳の条件づけの結果が
この思考であり
その思考が私という記憶なのである
もし脳の条件付けが一部解除されていたら
異なる状態の思考であることだろう
しかしそのハイとダウンの思考状態すら
物質の意識状態であり
それは元来ここに在る未知なる観察者と観察されるものの分離がない
観照者の意識ではないと思われる
それには脳の条件付けが解除されるためには
思考による思考の限界を看破することが起こらねばならない
・・・と、その様に思索している